日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

イエスかノーか

マレー半島を破竹の勢いで南下しジョホール水道を越えた山下将軍はパーシバル中将にこうせまった。シンガポールを渡すか否か。降伏するかしないか。イエスかノーか、と。

英軍は降伏し日本軍のマレー半島攻略戦は目的を達した。1942年2月の話だ。

ハイかイイエを迫る問いは問答無用だし意識や感情の交流というプロセスを経ない。それは会話をしようという態度でもない。聴く側からすれば、まずは結果や結論を知りたい。途中の過程には無縁。しかしこちらは結果を知りたい。家庭の中で無意識にこんなやり方をしている自分に時々気づくのだった。

妻との会話。たいてい話は飛躍しすぐには何の話題なのかわからなくなる。突拍子のないことも話し出す。主語のない会話、何の件についての話が分からない話はいらだってしまう。自分は何の話なのかをまず知りたい。まずは「〇〇の件だけど、」と題目を言ってほしい。しかも質の悪い事に、次からそう言ってほしいので、何となく話題の想像がついても敢えて質問してしまう。まったく性根が曲がっている。それでも明快でないと、五文型に落とし込んで畳みかけるように聞いてしまう。家内の抽象的な会話をむりやりSVOCの構文になるまで問うてしまう。救いようもない。

母との会話は更に輪をかけていた。同様な傾向に加わり、年齢相応な認知力低下もあり、同じことを何度も聞いてくるし説明しても理解をしてくれない。全く同じ手法を母にも使ってしまう。が、そんな風に妻や母を追い込んでしまうと自分はいつも後悔してしまう。特に老いた母はとても寂しそうな顔をする。

人とのコミュニケーションが好きだと思っていたし苦手ではなかった。事実早期退職した後の勤務先は人との充分な会話の上にのみ成立する仕事だったが、それは他人様相手だけに通じる事だと改めて思うのだった。

歳月は皆に平等で、確実に老化する。よく言われるのは若い頃は我慢できたことが加齢では出来なくなると。頑迷で迷惑なご老人の誕生だ。ましてや記憶力をはじめとした認知機能全体は個人差はあれど確実に低下するだろう。自分がそうならない保証もない。

ゆっくりと話せば理解はできる。もう仕事は現役ではないのだから焦る必要はないのだ。大切な妻や自分を世に出してくれた母を追い込むのもとんでもない話だ。

山下将軍はフィリピンで終戦を迎え戦争犯罪の責任を取り戦犯として処刑された。一方のパーシバル将軍は台湾や満州に抑留されていたが解放された後は東京湾にて米戦艦ミズーリ号艦上での降伏文書調印式に出席した。アイロニカルな結末だった。イエスかノーかという有名な一言は、山下将軍が翻訳者にむかって「ハイかイイエか意思を早く問うてくれ」と言った言葉が先走って独り立ちしてしまった、という述懐もあるようだ。

自分もそんな迫り方をするならば、いつか痛いしっぺ返しがあるのではないか。日々の態度を改めようと思っているが、加齢もありこれからますます先鋭化せぬかと戦々恐々としている。イエスかノーかではなく、申し訳ないですがどちらが宜しいでしょうか?と言ったところだろうか。気味悪がられるかもしれぬ。しかしそれが全ての人を傷つけないことになるだろう。白黒つけるのは自分の態度だけで良いのだ。

ハイの袋、イイエの袋。どちらかと迫られてもすぐには言えないこともあるだろう。