日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅5・車のいろは空のいろ(あまんきみこ)

● 車のいろは空のいろ あまんきみこ著 ポプラ社 1968年

児童文学、大人になって読んでも夢に溢れる。しかし何故筆者はそんな感性があるのだろうか、そんな事を図書館の椅子に座りながら思った。

図書館で借りる二冊は決めたので活字の大きなこの本は座って読もうと考えた。それは50年以上も前に、確実に家に在った本だった。また娘たちにも読み聞かせた記憶がある。

そら色のタクシーを運転する心優しきドライバーである松井さん。雪の降る小さな町のドライバーさんだ。この街には時空を超えた不思議な出入口があるようだった。パンクしたタイヤ。交換を助けてくれた子供たちをお礼にと、二人を載せて街を回る。いやー、こんな知らない世界があるよ、こんな快適な乗り物初めてだ、と大喜びだった彼ら。しかし降車したら車内に残ったものは狐の毛だった。何かに化かされたのだろうか。

田舎から送られてきた大きなミカンを一つ車中に置いた松井さん。道路に白い帽子が落ちているのに気づいてそれを拾うと中に居たのはモンシロチョウ。羽ばたいで帽子の外へひらひらと飛んでいく。帽子の裏に名前が刺繍されているのを見て、この坊やは折角捕獲した蝶がいなくては残念がるだろう。それではと松井さんはミカンを帽子に入れておいた。その間にタクシーに乗ってきた小さな女の子。言われるままに街を抜けると、とある野原で女の子は降りる。そこは蝶の里だった。女の子はたちまち羽ばたいて「良かったねー」と周りの蝶達と大喜びだ。帽子を開けた少年もそこに期せずしてミカンがあり、笑顔になる。

そんな心温まるファンタジーが散りばめられていた。

本を書く人々は鋭い感性とそれを文章に落とす力があるのだろう。児童文学作家や童話作家は、そこにより柔らかな感性、物事をより優しく見つめる視線があるのだろうか。人は成長し色々なものを背負い込む。丸いものがいつも正円であるとは限らないと識っている。しかしとある数字に3.14を乗ずるならば、大小の綺麗な円が描けることは永遠の真実でもある。

児童文学作家さんの持っているであろう子供のような瑞々しい感受性が欲しい。それがあれば世の中の見え方も大きく変わるのではないか。鋭い感受性が天与のものならば諦めるのみ。しかし世俗という砥石でそぎ落としてしまったのなら何かの心構えや心がけで失われたものは戻ってくるのかもしれない。今からでは、手遅れなのだろうか。

こんどは「モグラ原っぱの仲間たち」を読んでみようと思う。

懐かしい本だった。あの頃の瑞々しい感性は何処に消えたのか。なにかをすれば戻ってくるのだろうか。