歳をとり人目が気にならなくなったからか、好奇心を常に持とうと心がけているせいか、街往く人や店舗などで見知らぬ人に気軽に話しかけてしまう。もちろんそこに自分の興味を惹くものがあるからだ。
しかしここは都会。話しかけられた方は、何だこいつは、と思うことも多いのだろうか。
そうやって会話が成立する事もあれば無視されることもある。しかしそれは無視ではなく、聞こえてない事もあるのだと気づいた。耳にはヘッドフォン。ブルートゥースのお陰で昔のようにケーブルもなく装着はぱっと見はわからない。なるほどこれでは聞こえまい。視界に入っても見知らぬ奴だ、何故こいつの為にこの音楽を中断しなくてはしけないのだ? それはよくわかる。
とある私鉄の駅で、三味線を風呂敷にキッと縛っでラフに持っている方が電車を待っていた。そのくだけた感じに惹かれた。これは三味線?それとも沖縄の三線?それが知りたくて話しかけた。
彼はヘッドフォンは装着していなかったが、とても不機嫌そうに「普通の三味線」と答えた。
沖縄の三線がでてくる沖縄のテレビドラマが目下NHKで放映中で、もしかしたら彼はそう聞かれることもあるのだろうか。そんな素人的な質問には飽き飽きなのかもしれない。
返事があったので「その違いは何ですか」を端緒とした何らかの会話を期待したが、それは諦めた。彼は目線を合わすことなく遠くを見たまま返事をしたからだった。
会話で、目線をそらし相手の目を見ない。何故見ないのだろう。見たくないのならもちろんそこに土足で踏み込むことはしない。
しかしそれで人生楽しいのだろうか?相手の目を見ればその人となりはなんとなくわかるだろうに。そして伝えたいことも容易に伝わろうに。新しい世界も広がろうに。なんと言っても口よりも雄弁な目なのだから。いや、彼の世界が大切なのだろう。それもわかる。
「知らない人にあまり気軽に話しかけないほうがいいよ。都会なんだから。色んな人いるからね。」。いつも家内にたしなめられる。
自分は、そうではない。「人は社会生活をするもので、そこには意思疎通が欠かせないだろう」と言う。
何にでも興味を持ちすぎるのか、容易に人を好きになるのか。もしかしたら自分が規格外なのかとも思ってしまう。
人様はどうであれ、自分は相手の目を見て話したい、そして見つめられて話を聞きたい。しっかりと意思疎通を図る事。それが言語を持つ人間のみに唯一許される能力だと思う。皆がそうであれば、誤解を端緒とした気持ちの行き違いも、聞き間違いによるいさかいも減るだろう。少しは今よりも平和になるまいか。
こんな想いは、もしかして、楽天的すぎるだろうか?