日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

寄り添ってみる事

歳を取ると日常生活における様々な事が今とは異なってくるのだろう。体の機能としては立ったり座ったり走ったりと、普通に出来ていることがやがて苦しくなる。脳の機能としては保持されている記憶も古いものばかりになり、新しい事はなかなか定着しないし、短期間で忘れていく。これらは年齢を経た方々に接していると個人差はあれど如実に感じる。

自分も既に後者は日常の中で随所で顔を出す。人の名前も余程印象があったり深いかかわりあいを持たない限りすぐに忘れる。いや、覚えもしないのだから忘れるというのは正しい表現ではない。おうむ返ししかできない。しかし30年40年50年前の事はくだらない事まで実に明確に覚えている。さすがに買い物での釣り銭にはまごつかないが、それも怪しいものだ。小さな小銭入れからすべてを取り出してから、小銭をさばくようになったのもここ1年の話だ。

とある縁で、高齢のご婦人の病院への通院を支援することになった。その方のご自宅に伺い、共に歩き、病院へ赴き、会計。そしてちょっとした買い物に付き合いご自宅の玄関までお見送り。これが支援の内容だ。

ご婦人は都下でも有数の地価の高い土地に住んでいらした。そのとあるバス通りに家があった。そこでお出迎い。悪い印象を与えてはいけないし、気を遣う。十人十色の性格ではあるが、女性の方は男性よりも話好きが多く、また会話を求めている場合が多い。男性は高齢になればなるほど自分の知る限りでは孤立化傾向に進む。それは現在の仕事でも感じる。その差異はもちろん人による。

思いのほか交通量が多い通りを避けて裏道に入った。ゆっくりと、鉄道に沿って歩くと小さな駅に出た。せわしい踏切を渡ろうとしたが歩行器でこれを横切るのはためらわれる。駅には新設されたエレベータで踏切の向こうに渡ることが出来る。それを使う。病院につき、手続きをしてからしばらくは待合室のベンチで待機だ。ここへ来るまでには小さな段差も多く歩行器はそのままでは突破できない。道を行く自転車も歩行者も、ぎりぎりですれ違っていく。こちらが体を張って、時に相手を制しスペースを作らないと、なかなか行きかう事も難しい。お年寄りに優しい街づくりではない。

会計を終えてから今度はお買い物だった。パンを買っていくという。お洒落な街だけあり、美味しそうなパン屋には事欠かない。ご年齢にしては多い程パンを買われた。しかしそれもいろいろご本人は考えての事で、そんな話を一つずつ聴いていく。

玄関に送り届けて、中まで入った事を確認の上、手を振って別れた。予定した支援は終了。少し疲れた。何事もなくて良かった。

介護士の資格を持っているわけでもなく、自分はよほどのことがない限りお客様の身体には触れない。ただ、歩行器を頼りにして歩くご婦人のペースにあわせて、前後足元に危険はないか、注意を払いながら歩く。そして、ご婦人の話すことを、彼女が好みそうな方向に話が広がるように持っていくだけだ。「気遣い」と「傾聴」が大切なことになる。会話では決して相手を否定はせずむしろ彼女の言った言葉から、さらに彼女の幸せな記憶を引き出せるように、話を持っていく。そのためには勿論その時代の出来事や、彼女の住む地にまつわる地理的・歴史的な事を知っているほうがうまくいく。ただの話し相手でも、もちろん天気・四季の話だけしたがらないのならそれでもいいが、四季の花の話でもすれば、また会話は違う方向へ進むだろう。

とにかく相手が自分を通じて少しでも脳の動きが活発になれば、共に歩く者としてはなにも言うことはない。今日は、結婚してからこの地に住んで70年近くと言う女性の住み始めの頃の風景について伺った。当時はあたりは畑と林しかなかったという。自由が丘の街が緑の高い丘陵として見えたという。そうか。そういえばこの駅の二つ三つ隣の駅。川沿い遥か昔に遊園地があり自分も両親に連れて行ってもらったな。そんな話をすればとても懐かしがってくれた。彼女も又お子さんを連れてよく遊んだそうだ。その地も自分の記憶の中ではテニスコートだったがそれすらも今は変わった。そんな話を彼女にすれば、目を丸くして驚いてくれた。一体何年彼女はあの川の一角へ行っていないのだろう。しかし自分の誘い水で彼女の記憶の扉が開き、懐かしそうに昔の話を延々としてくれるのに寄り添うのは、悪い気持ではなかった。むしろ老いてもなお自分の足で街に出るという姿勢から何かエネルギーを得たのは自分だったかもしれない。

足腰は弱っているのは確かだが、それも大したレベルではないだろう。少しでも脳が元気づいたのならなにも言うことはない。

高齢化社会。健康年齢…。10年前には遠い世界、健康年齢など気にもしたことが無かった。しかしそれをこれからの自分にあてはめたら、漠然とした不安はある。決して遠い先ではない。が、見えない明日の心配を今からしても仕方がない。何かが起こればその時に考えるだけの事だ。幸いに、今は今日の自分の様に様々な形で高齢化社会を支援する仕組みが出来ている。それは更に進んでいくだろう。

「寄り添ってみる」と色々なことが見えてくる。まだまだ自分でもお役に立てる事もあるし、むしろ励まされるのだから。未来は明るいな。そう思いたい。

寄り添ってみると色々見えてくる