日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

脛に傷あり・Wレバーの締め増し

Wレバーで変速する自転車に魅かれて長い時間が経った。小学生の頃の電飾のついたセミドロップハンドル自転車は今思えばトップチューブに今の自動車のATレバーのような変速レバーが付いていた。せいぜい5段変速だったのか。社会人になってからブームに乗ってやってきたMTBは手元シフト。自分が一番長く乗ってきた自転車はWレバー。これが最も手に馴染む。

当時住んでいたパリ市の「売ります買います」掲示板で入手した1980年代のプジョーの中古ロードバイク。フレームサイズは自分にぴたりだがそこはやはりロードバイク。初めての自分にはギアレシオがきつく思えた。ランドナーの比較的ワイドなギア比に慣れていたからだった。普通なら足を馴れさすのだろうが自分は軟弱だった。入手後そうそうに自転車を馴れさすべく走行系を変更してしまった。

パリ12区で見つけた自転車店。確かバスティーユの近くだったと記憶する。そこにはカーボンやアルミの自転車は一台も置いてなく、街を走る仕事の自転車と、鉄のホリゾンタルフレームの自転車だけを扱っていた。何人かのアルチザンが店内でそれぞれ作業をしているという、今思えば徒弟制度の名残すら感じさせる不思議な店だった。

カタコト以下のフランス語で、ギアを交換したいと伝えた。すると、でかい箱をいくつか出してきた。「ここから付けたいパーツを選べ」と言う事だった。それはガラクタ箱の様相で、宝探しの様だった。フリーは直ぐに見つかった。12-28Tの6段フリーはレジナだった。問題はフロントギアだった。クランクは右クランクだけ憧れの当時モノのストロングライトがあった。ただそれにあうアウターチェンリングは50Tしかなかった。インナーチェンリングは28Tがあった。左クランクは似たデザインの右よりも長さの5ミリ程度短いクランクしかなかった。

左右で長さの違うクランク。アウター50、インナー28という組み合わせ。これで良いのだろうかと思い悩んだ。がその悩みを共有してアドバイスを得るほどの語学力も自分にはなかった。アルチザンたちも又英語は苦手なようだった。自分の狙いはローローでギア比1:1の実現だった。選んだパーツを持っていくと、リアのディレイラーも変える必要があるだろう、と言われた。左右のクランク長が違っても、もともと人間の足とて左右の長さは違うだろう、という乱暴なロジックで自分を納得させた。

案の定リアディレイラーのキャパは不足していて目いっぱいに前に伸ばしてもリアフリーの真ん中迄しかカバーしなかった。リアディレイラーにはサンプレがついていたがどういう訳かロゴラベルが剥がれて無かった。しかもデルリン樹脂は劣化していそうに見えた。交換することに異存はなかった。

プジョーとしてはエディ・メルクス辺りにでも似合いそうなイメージを意図したのだろうか、彼のジャージの如く暖色系のカラーリングを施した折角のフレンチロードバイク。その走行系には事もあろうにロングゲージのシマノが付いてしまった。日仏同盟だ。

フロントの変速には癖があった。インナーにはすぐに落ちてもアウターにはなかなか引っ張り上げられない。50T と28Tをカバーするのは厳しいのだろうか。すんなり入る時とそうでない時もあった。だましだましずっと乗っていたが、ランドナーとはまた違う軽快な乗り具合に自分はときめいた。帰国してランドナーを組んでいただいた自転車店に変速性能について相談する。アウターが48あたりなら楽だろうね、とはいわれていた。しかし万能なランドナーがあるのでそこまで熱心に探せなかった。更には街を走る生活のための自転車の整備に忙しい彼にアウターを探してもらうのも気が引けた。

たびたび手を焼くのでインナーには落とさないようにしていたが坂の多い街でもある。いったんインナーに落としたらとうとうレバーでは戻らなくなってしまった。手で持ち上げるしかない。神経質な変速性能で坂道の多い遠乗りはちょっと。目下は街乗り専門。とはいえ自転車さんの前を不都合な組み合わせで走っていたら丁度ご主人は作業中。これはちょっとコツを、と門を叩いた。

ご主人にすぐに言われた。「レバーはいったん忘れて、ワイヤー自体を人差し指と中指で引っ張り上げてください」。成程、あれほどてこずったアウターにすんなりと入った。指でワイヤーを引っ張り強制的にフロントディレイラーをアウターポジションに移す訳だ。

目からうろこ、とはこの事か。「Wレバーとワイヤーを締めるネジは緩むものです。緩んでいたからパンタグラフが動き切らないのです。そこでしっかり締めて」そう言ってマイナスドライバーを手渡された。確かに入手してから15年近く一度もここを締めたことはなかった。それからは嘘のようにアウターに容易に入るようになった。

左右長さの違うクランクに無理なギア設定。そんな思いが常にこの自転車にあった。完成されたメーカー品を自分の都合で変えてしまった訳で「脛に傷がある」と勝手に思っていた。しかしメカは正直で、一度動いたものはメンテをすれば動作し続ける、そんな当たり前のことに気づいた。

いつもながらありがたい助言を頂いた。感謝しかない。「脛の傷」はつけたのではなく思い込み。フランス生まれの細い鉄の自転車は、今年もいくつかの旅の伴侶だった。これからも9000キロの彼方の東の国でしっかり旅の友となってくれるだろう。知識もなければ脚力もない乗り手だな、と呆れられないようにしなくてはいけない。

このライオン君、フランスから家財道具と共にコンテナに乗り、日本へやって来た。長旅だったろう。まだまだ走ってもらう。

Wレバー。フリクションで動かしているとレバーの緩みにも気づかなかった。随分と初歩的なところで引っ掛かっていた。情けない限り。