日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

追憶の百名山を描く(7)・浅間山

●始めに: 

日本百名山深田久弥氏が選んだ百の名峰。山岳文学としても素晴らしい書だが、著者の意とは反して、このハントがブームになって久しいようだ。自分は特に完登は目指していない。技術的にも体力的にも出来ない山があると知っている。ただ良い指標になるので自分で登れる範囲で登っている。可能であればテレマークスキーも使う。この深田百名山、無理なく登れる範囲をどこかで終えたら、あとは自分の好きな山を加えて自分の中での百名山にしたい、その程度に思っている。

自分が登った懐かしい百名山を絵に描いて振り返ってみたい、そんな風に思う。いずれの山も、素晴らしい登頂の記憶が残っている。時間をかけて筆を動かす事で、その山行での苦しみや歓び、感動を、まるで絵を書くようにゆっくりと思い出すのではないか、そんな気がする。そうして時間を越えて追憶の山との再会を果たすという訳だ。

浅間山 (前掛山)2524m、長野県小諸市

深田久弥浅間山の文章には膝をたたいた。

上越線周りの急行がまだない頃、私の郷里からの東京行きは信越線によった。・・(中略)・・東京へ遊学以来、休暇ごとに私は何十回この山の裾を通ったことだろう。それはもう膨大な容積で、独占的な形で、さらけ出しの肌で、そして頂にはいつも薄い煙を吐いていた」。

自分が学生の頃は転勤で親の住居は富山県だった。だから自分の帰郷は富山。上野発の高崎線から信越線、北陸線がそのルートで、深田氏の書く上越線周りの急行(すでに特急)はあったがメインはやはり横川軽井沢越えの信越線だった。高崎線籠原辺りで左手に煙をあげている山に気づく。そして補機に押されて名物の峠を登る特急列車の乗客は、峠を越えた瞬間に広がる明らかにそれまでと異なる車窓風景に目を取られる。高原の避暑地・軽井沢。そこで初めて、右手に巨大な体を鎮座させ、寂しい程に一人狼煙を掲げる大きな山が目に入るのだった。

これが浅間山との出会いだった。いや、もっと小童のころ、家族で旅行での曽遊の地であったはずだが残念ながら奇怪な鬼押し出しの記憶しかない。・・高原を行く列車はゆったりとした浅間の雄大な裾を終始見ながら溶岩台地のすそ野を走り、やがて千曲川河岸段丘が迫る頃に、もう自らの狼煙を示す必要もなくなった浅間山は車窓から姿を消していくのだった。

そんな浅間山、噴火が相次ぎ入山規制が続く。思い出したように警戒レベルは下がるがまた爆発する。ずっとそんなことの繰り返しだろう。外輪山の黒斑山ぐるりをもって浅間山登山とするようなガイドもある。黒斑も良い山ではあったが、さすがにそれでは満足できなかった。

登山規制が弱まったと知りある秋に浅間を目指した。まるで南太平洋のサンゴ礁が空に出現したかのような、それは素晴らしい秋晴れの日で、空の青さが深かった。そしてまっ黄色に色づいたブナ林から、オレンジ色の針のような落葉松の紅葉の中を、静かに登っていく。期せぬ火山活動のためにヘルメットを貸し出しており、それを被ったのだった。

威嚇的にとがる牙山を越えて湯の平に出ると第1外輪山と第2外輪山のはざまであるそこはひどく開放的で心の休まる原だった。しかし左手にはもはや木々の存在も受け付けない、ただの瓦礫の高まりがある。地理で学ぶ「コニーデ型火山」そのものが立っているのだ。

容赦なく吹き付ける風に難渋して、なんとか外輪山の一角に立ち、それを南へ辿った。その最高点である前掛山2524mをして今は行政が浅間山の山頂としているのだった。この先に最高地点があるが、それは火山活動で入山禁止。それが解かれることは多分ないだろう。

看板を無視し、禁を犯して僅か数百メートルのその先へ進むパーティがいた。こことそこに何の違いがあるのか。

立っていられない程の風に辟易し、山頂を速やかに辞した。湯の平迄降りると嘘のように風もなく、ただ呆れるほどに青い空の下で、角の立った肌をさらけ出した山が眼前に無防備だった。

昔から馴染んだ、「狼煙の主」の山頂を踏んでようやく気になっていたことが終わった。ふかふかの落葉松の落葉を踏んで浅間天狗温泉に戻った。

(2018年10月・登る)

小諸の里から浅間山。秋。