日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

一年の計は元旦にあり・・・

自分にとってはお釣りの出るほど沢山の、とても整理がつかない程の出来事があった年もあっという間に暮れ、新しい年となりました。想像を絶する出来事に自分の中での価値観は大きく変わり、自分は一年前の自分ではない、そんな風にも思います。その今年にもまだまだ新しいことが起きる、いや、起こそうと思っています。

人生も後半、それは秋の日のつるべ落としのように、ここまでの年月に比べて一気に暮れ落ちるのでしょう。だからこそ悔いなきように過ごしていきたいと思っています。まだまだこれからを楽しむのもすべては気の持ち方しだい。これまで以上に様々な分野に対する好奇心のレーダーを広げ、ピピっと来たら即実践。そんなことを思います。そんな気持ちと気力に負けないよう体力は維持しないといけませんね。

「一年の計は元旦にあり」、という言葉。一年の始めはしっかりしよう、せいぜいその程度の意味としか理解せずに、毎年何気なく使っていた言葉ですが、改めて調べると「一年の事は年の初めに計画を立てて行うべき」という意味のようです。その意味では60年近い人生で、全く縁のない言葉でした。

それではと、ざっと広げた頭の中の模造紙に、やりたい事項や予定されている事項を広げてみます。残念ながら自分の頭の中は広くなく、模造紙は丸まってしまいました。しかし、右から左へ、上から下へ、それぞれそんな事項で溢れ落ちそうな気がします。

それこその新春のこの時期に、それを整理して、忘れないようにしてみましょう。やり残しは、大目に見るようにしたいと思っています。

一年の計、これから始まり、実践していくのですね。楽しく過ごしましょう。何はともあれ、病だけはもうご勘弁。そんなことをぶつぶつ呟きながら近所の氏神様で初詣。今は亡き姉と55年ほど前に一緒に遊んでいた公園の隣にある神社で、願をかけました。

(2022年1月1日・記)

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錆び切った「新・社会人」

病の治療が明けて5ヶ月経ちました。頭の手術瘢痕の違和感、頭部のしびれとふらつき。これにはずっと付き合うしかないようです。予後の経過観察もあと5年近くは続けるでしょう。しかし投薬の副作用であった指先のしびれもいつしかなくなり、失われた頭髪も年相応に戻りました。体力も少しづつ回復です。

少しアクセルを踏んでみようか、微速前進。それで来年から新しい社会人です。

いわゆるパート、非正規雇用社員です。半日程度が週数回。健康保険も対象外、厚生年金も払えません。

しかしいいのです。少しでも生活への足しになること、自分の遊ぶ費用位になれば。何よりも、社会との繋がりを持ち何か自分でも役に立てれば、そう思うのです。

新しい仕事先は地域行政・福祉関連の団体。高校生のアルバイト程度の時給ですが、少しだけ社会のお役に立てそうです。

社会の役に立つ、そんな発想は製造業で営業や企画などの仕事に携わっていた自分にはないものでした。自社の製品が社会の貢献に役立っているのかなどと自らを省みたことはありません。数字が上がればよく、あるいはその実行計画がきちんと作れ、未達成の場合は説明責任を果たせればよかった。故に、「お役に立つ」という事は微塵も考えたこともなかったのです。

この十年か、私の家内が地域密着の福利厚生的なパートに就いて、人に感謝の言葉を貰う嬉しさを話してくれました。仕事で誰かに感謝される。それは素晴らしい話です。家内は疲れるものすら楽しそうで、自分の仕事の可能性を広げるようにいくつかの資格を取りはじめていたようです。

そんな頃当時の会社で会社都合退職の募集がありました。条件は悪くない。子供も自立し何も負うものはない。職責や人間関係でメンタルを崩していた時期もありました。営利団体にはもはや興味も未練もありませんでした。躊躇は、なしです。

人に感謝される仕事。それに加え、海外と接する仕事を通じた中で感じていた日本の国際感覚の少なさ、海外の人の日本に対する認識の浅さ。何とかならぬか。そんなことから、地域密着、国際交流、そんな言葉をキーワードにして職を探しました。三ヶ月後にその線での職が決まり、大喜びです。

その入社と仕事始めが1月4日でしたがその二週間後、入社研修の後半で入院し長い戦いが待っていました。雇用の試用期間中に治療は終了せず自己都合退職。悔しかったのです。しかし病のお陰で自分の中で更に新しくなった価値観を前に、これは色々なことを見直す良い機会なのだ、と捉えることにしました。

今度の仕事、地域のお役に立てれば、と思っています。頭の上で色々考えて実践していた以前の仕事ではありません。どれだけ相手を慮り気を使うことができるか、自分の素の姿を出してそれを地域社会に受け入れていただけるか。そんな事を思います。

入社前の手続きで新しい職場に顔を出しました。ちょうど職場は朝礼中。新参者にも大きな声で皆さん挨拶をしてくださいます。こんな身の引き締まる光景、久しぶりです。怖いくらいに思えます。

初出社日は発病して退職に追い込まれた前職の事例を避け1月4日ではなく。一日ずらせてもらいました。少し縁起を担ぎたかったのです。

なまった自分の頭と体。働けるのか、不安もあります。

頑張れ、錆び切った新・社会人。髪の毛も薄くなった、世間体には「くたびれ果てたオジサン」。君にもまだ可能性はあるはずです。古谷三敏のダメ親父も、最後は弾け、幸を得ました。そんな古い漫画を思い出します。去りゆく年を送り、新しく年を迎えるのです。

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年末は沼津アルプスへ

沼津アルプス、沼津の市街地南方に南北に長い低山ながらも縦走を楽しめるルートです。その南半分は既に歩いているので、残していた北半分を歩きました。ここには徳倉山と香貫山という地形図記載ピークが2カ所あります。その登頂と各山頂でのアマチュア無線運用を目指します。

山仲間でありアマチュア無線仲間でもある友人2局、SとKさんとで歩きました。ほかに静岡在住仲間にも声を掛けましたが直前の連絡になり結果的に都合もつかず大変申し訳ないことになってしまいました。申し訳ありません。

急ぐ山旅でもなく、短時間のルートでしたのでのんびりと在来線で行きます。いつの間にか新幹線より在来線を選ぶようになりました。時間・効率を目指していた時期は自分の中ではどうやら終わったようです。

沼津駅で美味しい駅そば*を朝食に頂きバスで香貫台入口まで。ここからは急な登りで一気に沼津アルプスの主稜線へたどり着きます。ここから北上し徳倉山を目指しますが、これは更に急で、右手に鎖やザイルも握りながら一歩一歩確実に行きます。南半分もそうでしたが、沼津アルプスは各峰間の標高差もあり、かつ急傾斜です。低山侮るべからずの好例でしょう。
(*https://shirane3193.hatenablog.com/entry/2021/12/28/213242

徳倉山山頂は小さなカヤトの原で良い気分です。南アルプスが勢ぞろい。何よりも山岳展望です。北岳間ノ岳農鳥岳の白根三山。そして塩見、悪沢、赤石、笊、聖、光。スーパースターばかり。
白根三山は自分にとって最初の大型縦走でした。また驚愕すべきは塩見岳。白根三山からも、悪沢岳からも、それぞれ長い距離を保ち、独り孤高です。北岳から塩見岳への、あの気の遠くなるような長さを思い出しました。もちろん途中の小屋でテントでした。小赤石を従えた赤石岳はやはり南アルプスの盟主たる堂々さ。聖岳も船形のような角張りが立派です。光岳は少し恥ずかしそうに一番南方に視認します。そして笊ガ岳。稜線は南アルプスの主稜線からは外れますが白根南嶺です。その意味では農取岳からの尾根続き。山頂下の沢のそばでテントを張り、動物の気配が濃厚だったあの幕営地。それを感じ取る自分もまたただの動物。周囲5キロは誰もいないだろうな、などと感じた孤独感と喜びは何時までも新鮮です。こんなふうに旧友たちとの再会が伊豆の山では叶います。それが魅力のルートです。

達磨落としのような急坂を北に向かっており住宅地へいったんエスケープ。住宅と学校が混ざるエリアを抜けて車道を辿って最後の香貫山へ。ここは電波中継塔もあります。

ここからは西へ向かいゆっくり下り、沼津漁港まで歩きます。遅めの昼食はここを予定していました。海鮮が楽しめるのも伊豆の魅力です。魚市場のレストランは休業でしたが多くの店があり選ぶのも迷うほど。頂いた海鮮丼は唸るものでした。

沼津駅までバスで戻り、再び在来線で帰宅します。アマチュア無線運用は1200メガFMでの交信を目指しましたが成果なし。144メガFMでの運用となりました。

今年は嫌になるほど、お釣りが出るほど、沢山の出来事がありました。病を得ても何とか年末を迎えました。それこそ「拾った命」です。しかし歩行ペースは落ちているでしょうが無事に山を歩けるし、共に楽しんでいただける仲間もおり、感謝しかありません。生とは実に素晴らしい。

申し分ない年末山行でした。来年ものんびりマイペースで行きます。

(2021年12月28日・歩く)

写真

・沼ア、手作り感ある標識が続く。
・徳倉山から白根三山を遠望する。
・山中には猪の捕獲機が。
・ナナカマドに似ています。ネットで探すとサネカズラに近い。
狩野川の最下流の橋を渡ると沼津漁港。東へ振り返ると今日歩いた山々が師走の快晴で暖をとっていた。
・漁港のレストランはどれも外れ無し。沼津、由比、清水、焼津・・静岡の港町の食事、何処も最高です。静岡工場製造のビール。そしてさりげなく出てくるお茶も本場。

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奥さんが見た夢の話

夢と言っても叶える夢ではなく睡眠中に見る夢のお話。

奥さんが今朝がた見た夢だという。ふだんも家内は睡眠中に夢を見て時々それにつられてか寝言を発する。かなり緊迫した寝言もあげるので、どんな夢を見ていたのか?と都度聞くと大概その内容は全く覚えていない。気楽なもんだ。・・・しかし今日は家内から話してくれた。随分と具体的な夢だったのだろう。

場所はとある高原。何故かそこに僕らは住んでいる。もう僕は80歳をとうに超えたという。そして僕は愛車ジムニーを売却にするべく中古車ディーラを呼んだそうだ。ディーラは「本当にこのジムニー売っていいですか?」と僕に聞いたらしい。

すると僕は、「もういいですよ、替わりに電動カート(シニアカー)を2台買う手配したから。」と自慢げに答えたという。家内がその場で、「電動カートなんて公道走れるの?スーパーまで行けるの?」と聞き、僕は「当たり前だよ。お米も水も運べる。すべては考慮済だよ。僕は三歩先をいつも考えているんだ!」と髪の毛の無い頭をコツコツと指さして自慢したという。

家内の夢はそこまでで、起床してから一番に家内が僕に尋ねたことは、「ねぇ、スーパー迄電動カートで行ける道のりなの?」だった。

何を考えているんだろう、彼女。行けなくはないだろうな。しかし僕が車を手放すとも考えずらい。だいたい何歳まで生きているものか。人の寿命は誰も知らない。

しかしこれが事実になるとしたら、かなり笑える光景だ。僕が80歳なら家内は70歳ももう後半だ。そんな二人が、電動カートに乗ってソロソロとスーパー迄行くのか。なんだか春先のお濠のカルガモ親子の行進みたいな気もして滑稽でもある。

結納という今は無くなった習慣。その際の贈答品の中に、「共白髪」と言うのがある。「共に白髪になるまで暮らしましょう・・・」か。家内が見た夢が本当の話であるなら、それが「共白髪」の例なのではないか、と思う。

なんでこんな夢を家内は見たのだろう。嬉しかったことは辛い夢ではなく、なんとも間抜けで可笑しくて、少しだけ涙の出る、そんな夢の話だったことだ。

それはクリスマスの、夜のお話。

 

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駅ソバシリーズ(9) 沼津駅 桃中軒

桃中軒と言えば三島駅です。駅弁迄手広く作っているのです。同社のわさび漬け小パックの入った幕の内弁当はさすが伊豆を感じさせるもので、新幹線車中での食事やに持ち帰りによく購入しました。同社が三島駅で営業している駅ソバは東海道線ホームにもありますが新幹線ホームのほうが馴染み深いかもしれません。自分も出張の際によく利用しました。かき揚げについては桜海老かき揚げとシラスのかき揚げが選べるのがいかにも静岡らしいです。

といいつつ今回は沼津駅。ここは東海道線の上りホーム上にしかなく、小さな店は5~6人立てば満員。オバサマ一人での完全なるワンオペ。さてここで、いつものリトマス試験紙である「かき揚げソバ」です。

まず、出汁が甘っ辛い関東風から少し異なり、少し薄口になったようです。しかし味はしっかりしています。何よりの違いはネギ。白ネギではなく、青ネギです。・・・そう、地理で習いましたね。静岡糸魚川構造線。いわゆるフォッサマグナの一部、ここが東日本と西日本の分水嶺。実際の文化の分水嶺はもっと西寄りだと思います。しかし静岡でも東部にあたる沼津ですでにこのような食の変化が見られることは非常に興味深い話です。ちょっと興奮するのです。

大き目の海老がくるりと入ったかき揚げは食べ応えもあります。また、ナルトが入っているのもとても嬉しい。そう、かけそばにナルトは似合います。味も良いですが、黒っぽい汁に浮かんでいる赤い渦巻きが、見た目だけとはいえだし汁に深みを与えているように思えます。なかなか駅そばにナルトはお目にかかれませんが、実際にあるのを見ると、これが無いと画竜点睛を欠くようにも思えます。

総じてとても美味しい駅ソバでした。登り熱海行が入線してくるたびに人の群れが増えます。ワンオペのおばさんは想定外に入って来たお客様にきちんと「ちょっとまってね、今手一杯です」と一言。そのせわしなさと、横溢するローカル感覚がとてもいい感じ。

今日は山の予定です。大き目の海老の入ったかき揚げと青ネギのソバでエネルギーチャージ完了です。さてこれから、アルプスを歩くのです。アルプスと言っても、「沼津アルプス」。しかし、あなどれませんよ。高低差も長さも。だからこそ、素晴らしい駅ソバの厄介になったのでした。今日も一言。「ご馳走様でした」

PS・話は変わりますが、「男はつらいよ・奮闘編(昭和46年)」をご覧いただいた方は、沼津駅南口から改札階段の光景は頭から離れていないでしょう。私もそのクチです。映画の中の沼津駅は永遠に頭に中から離れません。自分は何度ここで榊原るみを見て、渥美清犬塚弘柳家小さんを見たことか。もうその沼津駅は、とうに消え、少し古びた真新しいビルに囲まれていたのでした。

(2021年12月28日・記)

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マルチな職人さん

とある食堂でランチの行列待ち。すると対面の中華料理店、こちらもなかなか繁盛。絶え間なく入るオーダーに二人の職人さんがひたすら調理する。二人とも僕よりは10歳は年上だな。キッチンの扉が開いているので二人の調理の様が見て取れる。

手前の方は洗い方とチャーハン、麺類担当か。奥の方は定食の一皿か。そんな役割分担は数分の観察でわかる。注文が飛んでくる

。オーダーの復唱は大きな声だ。手前の職人さん、ワンタン麺と聞き即座に茹で鍋にワンタンを投入。、終わるとすぐに途上だったチャーハンの仕上げだ。米が舞う。鉄の玉杓子で押し付けるようにするのがこの人のやり方だろう。数回それを回し、最後に大きく鉄鍋を回すと何とすべての米が宙を舞いその全てが玉杓子の中に収まった。そのまま皿の上に玉杓子を逆さに回して古墳のように盛り上がったチャーハンが出来上がった。

手元を見ずとも体がすべてを覚えている、その技は見事と言うしかない。

おじさんは空いた手で器にスープを取り麺と先程のワンタンを入念な湯切りのあと投入だ。具を無駄なく盛り付けて、さて、これでワンタン麺とチャーハンセットの完成だろう。ここからは見えぬお客様が喉をごくりと鳴らすのがみえる気がする。自分が待つ身なら喉が鳴るばかりか、期待で汗まみれだろう。

見事なり、町中華。神様の中華鍋それ一つですべての勤め人に、学生さんを、満腹にしてくださる。本当に素晴らしいです。

かく言う間に少しこちらの行列も短くなりました。しかし同時に達人の鍋さばきとその音に、こちらの胃もかなりヤバくなってきました。

そう、料理は見て、聞いて、匂う。それだけで食欲が倍増する。皿はそのあと。

順番が来たようです。獰猛な序曲の洗礼は十分浴びました。店は違いますが今度は私も頂く番ですね。マルチな職人さん、すごいワザありがとう。次回はあなたのチャーハンとワンタンメン、間違えなく頂きます。

とある神田の一角にて (2021年12月27日・記)

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自宅の中華鍋とは貫録が違ってました・・

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待った甲斐あり、極上のランチ。下町の味。神田神保町・「天婦羅いもや」にて

懐かしの街、神田界隈を歩く

社会人になっての最初の勤務地は神田でした。事務所が新しい場所に引っ越すまで、約15年間ここで働いたのです。

家内と所要で神田に行く必要あり、これを機会に少し歩こうか、と彼女を誘います。

35年以上昔、そんな当時の面影はもうありません。ビルが立ちテナントもいれかわりました。35年というスパンの中でも忙しい現代の時の流れの下では、それに合わせて変化していくのですね。

すこし新旧の想いでも取り混ぜながら、神田から神保町、お茶の水あたりを歩いてみましょう。


・神田駅駅前にあった中華料理店、会社の上司が好きでした。それも今はもうない。違うテナント。何よりも寂しいのは三角形の形をした路地の一角にあった「讃岐うどん店」、カウンタ式でしたが限りなく店の回転はは約立ち食いに近い店でした。丸亀製麺はなまるうどんよりも遥かに早く35年前にはここでしっかりとした讃岐うどんを出していました。いつしか時の流れの前に消えました。

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・駅前の山スキー道具店。会社員時代はお世話にはなりませんでしたが、テレマークスキー山スキーを始めてからはテレマークブーツ以外にシールやクトーなど、様々な用具を買うのにお世話になってました。店主さんはやはり山スキー歴が長く、しかもテレマーカーでしたのでお話を伺っているだけで楽しかったです。都内いや日本随一と思うクロスカントリースキーの在庫量も圧巻でした。もう店は半年以上も前に閉じ、窓から見る限りまだお宝は多そうです。しかし今はあの軽妙なご店主さんお元気だろうか。それだけが頭を去来しました。

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・会社への通勤に使っていたのは西口通り商店街、という小路でした。当時会社は8時45分開始でまだフレックスタイムもなくしかもタイムカードでした。いつもぎりぎりだった自分は定刻前にガッチャンするためにはここを7分程度で走破する必要がありました。いつも走りかけていると後ろから自分よりも数年先輩の、背の高い女性社員がこれまた走って追い抜いていきました。彼女は足も長かったようで。あっという間に喧騒の商店街を駆け抜けていくのでした。視線をお店に向けると。老舗の煎餅屋もありこれは健在でした。しかしバッタモン臭いネクタイを撃っていた店やディスカウントストアは跡形もなくなくなっていました。数百メートルの長い商店街にも、時の流れはあったのです。そういえばこの商店街のとある交差点にあったミスタードーナッツ。今思い出しましたが、ここで初めて今の家内に話しかけたのでした。当時彼女はなぜかわからないけれど、やたらと大きなドーナッツの箱を持って歩いていたのです。それがきっと面白かったのだと思います。そんなこともあり僕は今でも、ミスタードーナッツには頭が上がらないのです。

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・会社、こんなところにあった。大きなビルだと思っていましたが、小さな建物でした。色々教わったのです。このビルで・・。

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・会社のあった個所から小川町方面に歩いてみます。ああ、クラシックで良い感じのYMCAの建物、いつしか新しい建物になり、それさえも代替わりしました。古くて歴史を感じさせる建物も、民間が所有している以上仕方がないのでしょう。さらに歩くとありました。「顔のワイシャツ」店。多分にワイシャツの仕立て屋さんなのでしょう。この看板インパクトありすぎて、結局入ったことはないのです。

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・スキーショップ通りと勝手に思っていた靖国通りですが、今も健在。スキーがボードになり。ファッションも変わりました。この街を、さて年末のボーナスが出たら板一式買い替えだな。国産板を贔屓にしていた自分としては、ニシザワのデモンストレーターか、カザマのジェネシスか、小賀坂のユニティか。ビンディングはサロモンはメジャーだからパス。チロリアかマーカーか。そんなことを考えると楽しくて時があっという間に過ぎた、そんな楽しい場所でした。ゲレンデスキーにある時期興味を失いいったん離れたスキーの世界ですが、テレマークスキーをを覚えてから世界が変わりました。テレマーク山スキーを始めたからです。山スキーもこなせる上に、テレマークの持つ自由な感覚とその軽快さにとりこになりました。とあるお店では山スキーテレマーク用品が置いてあり、最新の器具の動向を知ることが出来ました。今自分が使っているテレマークスキーの道具も、もはや主流ではなくなりレトロな部類です。仕方ありません。これも20年以上前からやっているのですから・・。

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・神田界隈は自分にとっては、時期によっては山やスキーよりもウェイトの重かった趣味、ギターショップがずらりです。学生時代からどっぷりつかっていました。御茶ノ水駅から駿河台下に下りる通りが一番多いですが、小川町付近にもありました。この店は国産の自社ブランドのギター。それがなかなか好評でプロもたくさん使っていました。この店の壁に大きく描かれいたのはジミー・ペイジ。ある時からジミーペイジは絵が小さくなり、その上にキース・リチャーズの絵が書かれるようになりました。キースもジミー・ペイジも甲乙つかない自分のギターアイドル。素晴らしい選択に拍手です。

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・神保町はB級グルメの聖地です。特にラーメン。35年ほど前、支那そばと言われる類のラーメン屋はかなりこのエリアに多く良い店がありました。しかし今ではそのほとんどが消えました。ラーメン以外にもいろいろ贔屓ありますが、家内のリクエストもあり今日は天婦羅。実は同じ屋号の天丼屋の方に昔からよく通いましたが、そちらは数年前に惜しまれつつ閉店したのです。天婦羅屋は健在でした。相変わらず美味しい。職人の味をたっぷり堪能です。少し気取った店ならこの店の倍以上の価格がついてもおかしくありません。とてもコスパの高いお店です。45分間寒風の下並んだ甲斐がありました。いずれにせよ、お店の方の高齢化、跡継ぎ、さまざまな懸念すべき点があるのでしょう。ファンとしてはただいつまでもやっていてほしいと思うだけなのです。

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仕事に向かう家内とはここで別れ、少し遅れて山仲間と合流して更に街歩きです。

・山の本、といえば神保町のココです。昔は出張に行く前の週末などに、飛行機の機内で読むための山の本を買いに良く来ました。今日も2階の山の本古書コーナーに趣き、なかなか手に入れることが出来そうにない信州の里山のガイドブック2冊手に入れました。掘り出し物です。

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・このまま秋葉原に向かいました。パーツ屋は楽しいですが今日は買う部品もなく、スルー。リチウムイオンバッテリー関連に強い店もあり、これまた刺激を受けました。30年ごろ前まではアマチュア無線も人気ある趣味でしたので沢山の専門店があり活気もありました。それらはもうかなりシュリンクしています。自分には楽しいですが一般には忘れ去られて苔の生えた趣味なのかもしれません・しかし相変わらず自分は「CQ,CQ・・・こちらは」と言っているのです。

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・自分が始めて食べた博多ラーメン店。35年前と変わらぬ場所で経営していました。ここ、一体何回行ったか!

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時間が経ち、街並みも変わりました。残っている店もありますがそれは少数派かもしれません。多くはテナントが変わり、あるいはビルそのものが新しくなり、記憶をたどってももう追いきれない場所も多いのです。神田の街にある大学に行きたくて受験しましたがそこには縁がなかったのです。それでも未だにこの街をときめきを持って歩ける。これは嬉しい話です。近いのに今となってはなかなか来ることもありません。また次回来ることがあったら、多くの店が入れ替わり、また自分の知らない街になっている事でしょう。それも、楽しみです。懐旧は大切ですがむしろ変化を受容できる、そんな風に過ごしていきたいと思うのです。

(2021年12月27日・記)