日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

消えたエクセル

そこは病院だった。突然意識を失い倒れたので、入院の準備も何もなかった。

手術を終えると集中治療室。自分はそこで目が覚めた。持ち物はスマホだけだった。病院からレンタルされているパジャマを着ていた。下着は紙オムツ一枚で、陰茎から導尿管の管が伸びている。

隣には外国人が入院していた。「ヘルプミー」と英語のうめきが聞こえる。部屋は真っ白で昼夜の区別がないのだ。無機質さの中で時間は渦を巻いており、その中で、まるで渦潮に巻き込まれた木の葉のように、自分は混沌としていた。

どうやら脳腫瘍で開頭手術をしたらしい。時間感覚のない理由は、やはり脳の一部を切り取ったからだろう、そう思った。一体何日そこにいたのか。僕は時間の中に溶けていくのだった。

切り取った脳細胞の分析の結果、転院が必要と知った。血液の癌だった。癌病棟に入り、ベッドの上で日々何を考えて過ごしていたのだろう。学生時代の友人が励ましのグループチャットを開設してくれた。そこに思いの丈を吐いた。友人達の温かさに触れて僕はいつも泣いていた。すると看護師が笑いながら言う。「泣くのは大切ですよ。オキシトシンが出ますので。幸せホルモンですよ」と。

日々誰かが部屋からいなくなる。どこに行ったのかわからない。知っても滅入ることなど、知る必要もない。

ああ、あれが見たいな。そう思ったのはなぜだろう。あれなら、たくさん泣けると。

妻にノートパソコンを持って来るように頼み、毎日のようにDVDを発注した。記憶に残るものから頼み、それを見ては毎日泣いていた。明らかに僕の感受性は尖っていた。もちろん泣ける映画ではあるが、泣きかたが尋常ではなかった。いつの間にか三十本は棚にたまっただろう。

下駄のような顔の男が主人公だ。彼は啖呵売を生業とする。旅ガラス、宿無しと己を語るのも辛かろう。親と喧嘩別れをして故郷を捨てた。数十年ぶりにその街へ戻り、そこから話が始まる。まさかそれが四十八本の作品になるとは、監督も思っていなかったらしい。年二回、盆暮れに放映され、国民的映画とも言われた。

その映画の主人公は、寅さんというカッコ悪い男だ。そそっかしく喧嘩早い。粗野で粗暴としか言いようがない。しかし人情味がある。困った人の心に寄り添い、故郷に戻っては短気ゆえに家族と喧嘩別れして出ていく。そんな旅の中で出会った女性に恋をしては、また故郷に戻る。故郷には異父妹と叔父叔母がいる。いつも優しく迎え、喧嘩をし、去った彼を案ずる家族、そして隣人。己の不甲斐なさを知るが故に、必ず恋は実現しない。再び彼は旅に出る。

永遠のマンネリとも言えるが、それも続ければ様式美になる。何よりも毎回変わる恋の相手役の女優が魅力的だし、当時の日本の風景が美しく懐かしい。それらが人情という言葉の基礎の上に立ち、フィルムに収まっている。

海外出張の多かった自分は、いつしか往復の機内でほぼその全話を観たのだった。出張は辛かったが、この映画が観られるので楽しみだった。

DVDはその記憶に頼って買った。先ずは第一話。そして記憶に残る作品を買い続けた。太地喜和子長山藍子、榊原ルミ、八千草薫吉永小百合。そして大原麗子竹下景子、何よりも浅丘ルリ子。途中で僕はスマホを手にして、パソコンのエクセルで作品一覧を作るようになった。女優、ロケ地の魅力、鉄道の魅力度、そして感動の度合いで三段階評価を並べた。点数の高いものを買っていった。

確実に彼・彼女達は僕を泣かしてくれる。有り余るセロトニンは、癌細胞を駆逐してくれた。

そしてこの数年だろうか、ほぼ途切れることなくBSで全話再放送されている。毎週録画。それが数ヶ月前に終わり、なんだか土曜日の張りがなくなった。

美しすぎる日本の原風景、変わらぬ人情味、家族の絆、他人に向ける視線の温かさ。涙と笑い。通奏低音を一言で言えば、「愛」。今の日本にそれは残っているのだろうか。

妻は当初「なんだかめんどくさい映画だ」と嫌がっていた。彼女は少し複雑な家庭で育ったので、人情譚は疎ましいかもしれない。それも分かる。ただ、少し計算もあった。これを見て分かってほしい。きっと貴女の親も苦しんだだろうから、と。しかし申し訳ないと思いながらも遠慮がちに夕食時に見ることが何度も続けば、さすがに何かを感じ話を覚えるのだろう。今では自分顔負けに話を覚えている。娘がまだセーラー服を着て帰宅した頃に、丁度寅さんがちゃぶ台をひっくり返すシーンを見たのだろう。「何この映画、私こんな人嫌い」と言っていた。

日本の美しい風景はもう残っていない。デジタル社会でネットで人が「コネクト」される時代には、もう人のもつ温かい肌感覚もない。この国は何処に行くのだろうとも思う。

動画配信サイトで、あの第一話が配信されていた。早速見始めて、食卓は涙の洪水に沈んだ。

子を産み人の親になった彼女に、また聞いてみたい。僕を癌から救ってくれたこの男は、そんなに滑稽で粗野なのか、と。

パソコンを入れ替えて残していたはずのエクセルファイルは行方不明になった。しかし構わない。頭の中に彼の足跡はしっかり残っているのだから。