日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

神の国の子供たち

ニッカズボンにニッカポッカ。そんな古風なサイクリング姿の初老の男が、華やかに美しい家族の写真を撮っているのだった。何だろう、カメラを戻した男は顔をぬぐっている。

なぜかわからぬが、手が震えた。震えはカメラを持つ手が揺れるからだった。

「お撮りしましょうか?」そう言ってスマホを受け取った。イチ、ニのサンでいきますよ――息を止めてシャッターを押す。鳥居を背に、晴れ着を着た子どもを中心に並ぶ家族の写真だった。幸せのワンシーンを撮るのになぜ手が震えるのか。

それは、僕が泣いていたからだ。何かが体の奥を打つように、感極まっていた。サイクルシャツの裾でそっと涙を拭った。

御柱祭りという神事がある。六年に一度、国有林にある十トン近くもあるモミの木を切り倒す。大社に立つ御神木を入れ替えるためという。

何十、何百人もの氏子たちが巨大な木の柱を山から運び下ろす。木落しだ。坂道を氏子たちが木に乗って、また綱を引きながら三十度の斜面を滑り落ちていく。テレビでもよく見る光景だ。時に死者も出てしまう危険な神事だが、人々は勇壮に、そして厳かに対峙する。

長野県諏訪市――諏訪大社に来ていた。木落しと言われる勇壮な祭りのある神社だ。山肌に立つ立派な社殿に、思わず息をのむ。

参道で、おくるみに包まれた赤子を祖母が抱いていた。ワンピースにジャケット、スーツにコート姿のお母さんとお父さんは、その我が子を暖かく見つめている。

やや冷たい空気の中、彼らの周りだけがぽかぽかと陽だまりのようだった。

「お宮参りですか? おめでとうございます。良い天気で良かったですね。」話しかけざるを得なかった。


少しだけ涙が出た。昨年、孫を抱いた日のこと、そして三十年前にわが子の手を引いた自分を思い出したからだ。

参道にはたくさんの人たちがいた。晴れ着の子どもの手を正装の親が引き、祖父母が見守っている。それは、幸せの集団に思えた。

七五三だった。

氏神様の神殿で正座した着物姿の娘を思い出した。祝詞のあいだ、足の指をもぞもぞと動かしていたあの小さな背中。しかし彼女もまた、自分たちに言われて小さな頭を下げていた。かんざしを揺らしながら。


本殿に続く長い列だった。誰もがお辞儀して鳥居をくぐる。沢山のおめでとうが秋の好日に舞っている。それらが諏訪大社の神様に祝されると思うと涙が出る。大社に立つ氏子により運ばれたご神木も。また祝福をしている

大社に入るときも、出るときも、誰もが深々とお辞儀をする。古式ゆかしき神事、従う人々、家族の記念写真、そしてシャッター押すのに肩を震わす男。

この国は、そして人間は、なんと美しいのだろう。神の国の子どもたちでいられることが、なんと幸せなことだろう。時にネガティブになる自分の心も、今はどこかへ飛んでいく。

孫の七五三まで、あと二年か。その日まで健康でいられたら、僕らも正装して出かけよう。鳥居をくぐるとき厳かになり、目を落として着物姿の孫を見て、きっとまた涙する。次の神事までは三年。まだこの世に居ればぜひこの目で見たい。氏子ではないがまた震える。

そうだ――僕たちは、神の国の子どもたちなのだ。

サイクリング車にまたがり、ペダルを踏んだ。諏訪湖の向こうに山並みが見える。秋の風の中、それは呆れるほどに美しかった。