自宅から友人の家まで、緩い登り坂はアカマツと広葉樹の森を抜けて行く。時間にして五分。海抜千メートルを越える辺り一帯はアカマツの森となる。そこで自分は何度も鹿の親子を見た。鹿に注意という意味の、鹿を模した可愛らしい看板もこの通りには幾つもあるのだった。
しかし数週間前にそこを通り驚いた。野球のグランド程度の大きさだろうか、綺麗さっぱり伐採されていた。ここ一と月の話だった。リゾート施設でも立つのだろうか?新宿直通の特急あずさの停まる駅から車で五分。立地的にそうなってもおかしくないのだった。
鹿がいるからこそ鹿に注意の看板も出来たのだった。彼らは一体どこに住処を求めるのだろう。唯一の救いは道の北側の林は手つかずだという事だった。そこには笹も茂り広葉樹もある。鹿はそこに安住してほしいと思った。
森の高原に住んでいるとはいえ自分も又俗世間に生きているのだった。JRの駅は近くその周りには赤提灯も三軒ほどある。友人と二人でそんな店の一軒に行った。信越国境の山をスキーで登ったら同じくテレマークスキーで山頂に登ってきた人がいた。話しかけて連絡先を交換したのは彼がテレマーカーであり、又自分が住もうとしていた高原の住人と知ったからだったからだ。この地に移住して連絡を取りそして飲み屋で何度か話をした。今度何処かの山にスキーで、そんな話だった。
飲み屋の主人はさすがにこのあたりの土地に詳しい。くだんの林の伐採の話をした。すると彼はこういう。ああ、あそこね。アカマツも寿命なのではないかな。風も強い場所だから災害になる前に伐採したのかもね、と言われるのだった。そうかもしれない。松の寿命など考えたことも無かったが高さにして30メートルは超すあの木々が倒壊したら大ごとではないだろうと思った。ともに酒を飲む山スキーの友人はこう言うのだった。「松くい虫にやられたのかもね」と。それもありだった。
自分がこの高原に引っ越してきたのは山の眺め、豊かな森林、美味しい水と空気だった。その一部がこうして消えていくのはやはり寂しいのだった。「伐採した後どうなるのかな。落葉広葉樹を植えてほしいね」とうご主人は言われた。諸手を挙げての大賛成だった。この広大な伐採跡にコナラ・ミズナラそしてブナが植樹されたなら、十年いや二十年後が楽しみだった。多くのドングリも落ちてもしかしたら森の熊さんもやってくるだろう。残念なのはそんな年月を経たこの地を果たして自分の目で見ることが出来るかは不明だという事だった。せめて伐採地の所有者は良識ある方であり長期的な視点を持っていらっしゃるといいな、そう祈るだけだった。
この道で出会った鹿を想い出した。車を通すまじと道の真ん中に足を突っ張りじっと立っていた。カモシカではないがまさにそれは「寒立ち」だっただろう。彼らが林の中で「どうするここに居続ける?難民申請でもしようか?」「いや、最近は難民にも風当たりが強いらしい」「おとうさん、どうしたらいいの?」そんな話をしているだろうと哀しい想像する。残念ながら自分には何もできないのだが、こんな話は伐採地跡だけにしてほしい。
減っていく林はこの地に移住して年浅い自分を何故か寂しくさせるのだった。
