日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

頑張れ移住組

我が家の裏手には少しくたびれた民家がある。その裏の奥にはミズナラの林があるがその建物は農地に囲まれていた。ある夜にその道を通ったらなんとその疲れた建物に灯がついており車が数台停まっていた。車を停めて近づいた。古い家はきれいにリフォームさらてイタリアンレストランになっていた。数席のカウンターにテーブルが四、五卓。すでにほぼ満席だった。ご夫妻と思われる二人が出てきた。ワインの品揃えが楽しめますと言われた。

道の駅という施設が一般化したのはいつからだろう。少なくともオートバイにまたがり様々な山間部を求めて走っていた八十から九十年代には見たことはない。しかしそこは今では観光の人気スポットとして多くの人を集める。土産物、土地の食べ物、体験工房、温泉、レストランが並ぶのだからその理由は明らかだ。その道の駅の目玉のひとつは湧き水だった。冷たい水を求めてポリタンを手にした人が並ぶ。そんな片隅にキッチンカーがあった。それは僕の好きなメキシコ料理だった。ヒゲを生やした若い店主とキッチン内で働く女性が見えた。チキンのファヒータを注文した。それはスパイシーで美味しかった。

道の駅には観光案内所が併設されている。働いている方に声をかけた。地元のことは知悉されているが、振る舞いに僅かばかり隠せぬ都会の香りがした。

沢のそばに小さな農地があった。手を休め犬を見ている。犬好きかと挨拶をした。犬を飼われているという事だった。僕は代わりに彼が手をかけているトマトについて質問する。話はいくらも膨らむ。

そもそもなぜ僕は高原の土地に住んでいるのだろう。横浜という大きな街に住み生活において不自由はないはずだった。登山を趣味としている自分はもう数十年も前からこの地に幾度となく訪れていた。そんな地に友人が都会から移住したのはもう十五年は前だろうか。アカマツ林を開いて素敵な白い家を作られた。山歩き、ランドナーでのサイクリング、音楽、鉄道と趣味があい、僕は山の帰りにいつもこの家に立ち寄っていた。都心に戻る中央高速上りの渋滞を避けるためというのは口実で、友人ご夫婦に会うのが楽しみだったのかもしれない。

彼らが少し街を歩くと多くの挨拶が飛んできた。人間関係の希薄さを良しとする都会生活者にとりそれは新鮮な驚きだった。ご夫妻は地に溶け込んでいらした。

脳の癌と診断されその一部を切り取り自分は半年間治療した。その間に職を失ったが、代わりに夢を持った。病から戻ったらあの高原で残された時間を過ごそうというものだった。夢は励みとなり目標となった。便利に思えた住み慣れた都会の街が息苦しくなっていた事も手伝った。

数年後に、僕達夫婦は住み慣れた街の区役所に行き住民票を移した。転居後の住所欄に僕はペン先が壊れるほどの力強さであの高原の地の住所を書いた。その日から高原の住人となった。

友人夫妻は勿論のこと、イタリアンレストラン、キッチンカー、観光案内所職員、トマトの男性、皆さん誰もが移住者だった。

彼らが移住してきた理由は色々だろう。話好きな自分は何らかの生きるヒントを得ようと、相手によっては失礼にならぬように聞いてしまう。都会の人混みに辟易し我が子を伸びやかな土地で育てたいと言われた方もいた。

移住者が従来の土地に溶け込み生活をしていく。文化の違いもあるだろう。しかし時間とともにそれは溶け合っていく。友人夫婦のように街を歩けば挨拶が飛び交う、そんな世界に憧れる。

多くの移住者がこの街には居る。皆この土地で根を張られている。僕達と犬一匹もそこに加わった。自分たちもようやくいくつかの知己を得た。今日も道の駅へ行った。いつものキッチンカーは夏空の下に湧き上がる真っ白な雲の様に気持ちを盛り上げてくれる。オーナー夫妻に挨拶をした。そんな日々は楽しい。我が家の庭にようやく数本の木を植樹したのは最近のことだが、いつこの土地にしっかりと根を張るのだろう。頑張れ移住組。それは皆への、そして僕らへのエールだ。

キッチンカーからは、なぜだろうもくもくと歓びの雲が溢れていた。頑張れ移住組、そう口にしていた。