日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

負ける気持ちに

億劫だな、に加えて不安だなと思うようになった。そこに怖いなという気持ちも加わった。それはもう一つの気持ちと相克する。行くのだろう、楽しみなんだろ。さっさと行けよ、という気持ちだ。正と負は自然科学の分野では不可避だがこれが心のなかに起こるのは不思議だった。

病のあと自分は大きく変わった。感情面では喜怒哀楽の制御が効かなくなったこと。肉体面では慢性的な頭のしびれ、ふらつき、倦怠感が拭えなくなったことだった。脳の一部を切り取るとはそんなものかと諦めている。

登山はこれまでの中で会社人ではない自分の一部として大きな位置を占めていた。最低でも毎月一回の山行を何十年も続けてきたのはそうでなければ出来ない。登山に対するスタンスはしかし年齢とともに変わってきた。行く山が大きく困難になってくると不安が生まれた。結婚して家庭をもつと、行きたくない気持ちが初めて生まれた。彼らのために安全に過ごさなくてはいけないこと、何よりも家庭は安住の地だった。

病床でこの高原への移住を夢見たのは好きな山の近くありたいと思ったからだった。しかしいざ退院すると気力も体力もない自分を知った。いずれ戻ると思っても三年経っても何も変わらない。むしろ加齢という抗えぬ自然現象が加わり、僕は後ろ向きに向かうだけだった。

梅雨は明けたが高原の地には定期便があった。午後には積乱雲が湧き雷雨がくる。そして街は霧の中に入る。詩的で美しいとも思う。と同時にそれは格好の言い訳をくれる。

今日も雨だな。、山は無理だなと。がそれ以前に、沢を高巻いてガレ場を渡り、三点確保で尾根に出て稜線のリッジを渡り、草付きに手をついて山頂に着くという自分の姿が想像できなかった。。

山ほど気力が必要な場所を自分は知らない。長くて辛い登りを支えるのは山頂への思いで、そのために気力が必要だった。その気力が湧いてこないのなら山に登れぬのは仕方のないことだった。脆い気持ちで登ることは出来ない。山頂を踏めぬどころか事故に遭うだろう。

今日の良い天気を前に僕は一つの言い訳を考えた。午後からまた雷雨だと。そこでサイクリングに行き先を求めた。決してサイクリングのハードルが低い訳では無いがいざとなれば街角の軒下や木々の下にに駆け寄り雨をしのぎ、辛ければ最寄りの駅から輪行すれば良い。多少は気が楽なのだった。

山に登れずに途中で戻ることを山ヤはこう言う。「敗退」と。それは本人に取り不名誉だった。山で敗退でもいいのではないか。勝ち負けを競わないのが登山ではないか。そう思おうと決めた。

登ろうと狙っている山がゆっくりと遠ざかる。何度挑戦しても良いのだ。僕は揺れる列車のデッキに縛った自転車の袋に手をかけた。

今日こそ、いい日だろうと。