日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

ランステの会員証

「ステージでへたりたくないのよ、だから走っとかないと。ミックだって今もステージ狭しと踊りながら走り回るでしょ。彼八十歳なのに」

二人とも少し息が上がっていた。酒が入った上に乗り換え駅の階段をダッシュしたのだ。休日前夜の都心の駅でやってきた電車に飛び乗れた。いやぁ、今日のリハは疲れたけど楽しかったね。二時間では足りないね、そんな話からの会話だった。

初めて彼女を観た時自分はプロの歌い手さんなのかと思った。華があった。存在感と言い換えても良い。声量・熱量だろう。スパンコールのついた衣装がスポットライトに煌めいた。ダイアナ・ロスにみえた。ブラックミュージックを演奏する友人のバンドのライブを見に行った。そのバンドのフロントマンが彼女だった。何度かステージを見に行ったが何より彼女は歌う事が好きなのだろうな、とひしひしと感じた。回遊魚に例えるのが適切かどうかわからないが、常に歌っていることが私の証なのよ、とでも言っているように思えた。

自分が皇居一週を走ってみようと思いついたのは彼女の影響だった。皇居一週5キロメートル。コースタイム40分、そんな画像が彼女のSNSにアップされていた。そして自分も日比谷のランステの会員になった。自分は45分だった。竹橋から千鳥ヶ淵あたりの登り坂が何気に辛いルートだった。怠け者の自分は何度かトライして辞めてしまった。もう会社員ではないので都心への定期券も無くなった。有楽町駅迄の電車代もかかるしわざわざ皇居まで行かずとも区営のジムのランニングマシンでもよかった。

「ランステは何処を使っているの?」

そう四文字略語を使ったが直ぐに会話が続いた。自分の年齢と一つしか変わらぬ彼女は今も皇居外堀の近くで働く現役会社員。そのオフィス傍の馴染みの銭湯をランステにしているという。ランステとはランニングステーションの略語で着替えやシャワーを備えた施設をさす。ランナーはそう呼んでいる。

「だんだん走るスピードが落ちてきてわ。でも止めないの。走り続けなきゃね。」

そして僕に向かってこう言ってくれた。「ここまで元気になりベースも弾いてくれて嬉しかった」と。もう10年以上になるだろうか、彼女は自分が脳腫瘍になる前のステージで一度だけご一緒させてもらった。ゲストシンガーでバンドに参加してくれたのだった。やはりスパンコールの衣装が輝いていた。演奏は楽しかった。ミック・ジャガーの話が出たのはもしかしたら今回彼女に歌ってもらう曲の一つがローリング・ストーンズのナンバーだったからかもしれない。今日は初めての音合わせだったが、ファルセット使いのミックとはいえ男性ボーカルは声域の広い彼女にもきつそうだった。その場でキーを一音半上げた。ピタリとはまり原曲の持つカントリーミュージック感がより強くなった。

他に数曲、彼女の歌う曲を練習した。ブリティッシュ・トラッドで変拍子が多い。小節の数も解りずらい。音はまとまらない。つわもの揃いの他のメンバーも苦労されていた。なら、間を入れずにそこは4/4で通そう、とドラマー氏から提案があった。原曲の凝った感じは消えたが演奏がスムースになった。今回彼はスティックではなくブラシだった。彼がブラシで叩くのを見るのは初めてだった。ギター氏はアコースティックを持ってきた。アコーディオン氏もブルースハーピスト氏も愛機を携えて来た。誰もが前を向いているのは、楽しい。

「音楽やっていてよかったと思うの。知り合いが増えて輪がひろがるのよね。多くの人が私を観に来てくれるし。また今日みたいにいろいろやって音を作っていくのは楽しいわ。」
「そうだね、みんなで試行錯誤してバンドサウンドを作るからね。いろいろあるけど、音楽も生きる事も、走り続ける事だよね。」

彼女が乗り換える駅に着いた。日付が変わろうとしている混んだホームだ。手を振り彼女は小走りに去って行った。さて僕も肩にずしりとくるベースギターを担いであと数駅だ。思い立って財布を調べてみた。ボロボロになったランステの会員証はまだ残っていた。千鳥ヶ淵の桜は、来週だろう。

音楽を続けるにせよ何にせよ、走り続けることの大切さ。バンドのリハとはステージに向けた練習だが、それ以上の事をいつも思うのだった。

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