日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

ソラナックスとゾルビデム

今までに数えた羊は何匹だろう。その数は数えていないがそんな民間伝承のお世話になったことはある。しかしあまり効果もなく、かえって開き直ってガバっと布団を剥いで起きてしまうことのほうが多かった。すると明日のことが気になり目がますます冴える。仕方なく布団に入りなおす。いつしか寝ている。高校生の頃からそうだった。「寝不足恐怖症」と勝手に呼んでいた。

六年間を超えるヨーロッパ生活の最後の一年は単身だった。なぜか分からぬがその一年は寝付けないことが多かった。海外生活の疲れの蓄積なのか一人住まいのせいか、わからない。会社の人に聞いてとある薬を薬局で買った。医師にかかっていないのだから今思えばどんな薬だったのだろう、睡眠導入剤のたぐいだろう。結局怖くて服用しなかった。カモミール茶を寝る前に飲んでみた。少しは効果があった様だった。

帰国してからは寝つきは戻った。しかし新しい職場でメンタルの具合を悪くした。パワハラの類だった。ある部下から人前でガンガンと責められた。よほど自分は管理職として無能だったのだろう、それは自身がわかっていた。しかし公衆の面前で罵詈雑言をあびせられコーナーポストに追い詰められてその無能ぶりを責めたてられたら、あっけなく自分は精神を病んだ。会社に出社してPCの電源を入れる。モニタに映し出されたウィンドウズマークを見ているだけで手は固まり体は震えた。パスワードを入れる事も出来なかった。そこで小さな薬を取り出して飲む。五分経っただろうか、周りの風景はゆがみ、そして回る。酩酊してくる。廊下の椅子に出て頭を壁に付けると少し寝てしまう。

精神科の医師は自分に「適応障害」という病名をつけてくれた。抗うつ剤を処方された。ジェイゾロフト錠だった。それは幸せホルモンの一つとされる脳神経伝達物質セレトニンの作用を強める薬と言う。幸せホルモンとは随分と抽象的な呼び名だがオキシトシンドーパミン、そしてセレトニンの三つを指すようだ。好きな人との交流・感謝の気持で分泌されるオキシトシンは緊張や恐怖感を和らげる。有酸素運動や目標達成時に分泌されるドーパミンは集中力を高めやる気を起こす。太陽を浴び、感動の涙を流して出てくるセレトニンは睡眠や精神状態を安定させるという。

そしてもうひとつ、どうしても辛かったら飲んでください、と処方されていたのが「ソラナックス」錠だった。短期作用型の抗不安剤とされる小さな錠剤は筋弛緩剤とも紹介されている。精神安定剤だった。それを僕はお守り代わりに何時も持ちあるいていた。生来の喘息発作時に備えたエアゾール式の気管支拡張剤に加え、新たに抗不安剤がお守り袋に加わったのだ。それを会社の机で震える手で飲むのだった。そのあとは頭も体も脱力し半日廃人だった。・・自分から願い出て職位を外してもらった。勤務地も変えてもらいストレッサーから遠ざかった。やがてそのストレッサーは今度は違う人間を追い込み職場を追い出された。コンプライアンスが言われ始めていた時期だった。その時点で自分の病は完璧に癒えたが、今でも当時の事を思うと苦い汁が胃から上がってくる。

数年後に脳腫瘍に罹患した。脳外科で腫瘍を切除し血液内科でその原因となった悪性リンパ腫を叩く治療に入った。入院した病棟の生活は辛かった。同室のベッドから去る人が居れば、退院したか天に召されたかのどちらかだった。そんな環境だからか、脳の神経活動を抑える薬以外にもう一錠処方されていた。「ゾルビデム」と呼ばれる睡眠導入剤だった。こちらはソラナックスの様な顕著な効果を自覚せずにいつしか眠っている、そんな薬だった。毎晩二十一時が消灯だった。その直前に飲んでいた。

ゾルビデムは今でも時々服用する。明日の朝が早く一日フルに動かなくてはいけない時、寝不足を恐れるために飲む。昔からの「寝不足恐怖症」から逃れるためだ。今日は遠方に出かける予定があったため昨晩久しぶりにゾルビデムのお世話になった。何処にあったかなと薬箱を広げていたら、ソラナックスが出てきた。かつて震える手でそのパッケージを破った、金色のシートに赤い文字は何故か懐かしかった。古い戦友だった。

ガン病棟では日夜励ましてくれる友人のありがたみを感じ毎日泣いていた。それを見た看護師さんはもっと涙を流してセレトニンとオキシトシンを出してガンを駆逐しましょう、と言うのだった。日々の波はあるがどうやら目下僕は幸せホルモンは多少は分泌されているようだ。しかし人間の精神など脆いもので、いつまたお世話になるかも分からない。さすがに数年前の薬なので戦友は捨てた。今の自分のお守り袋には喘息の吸入剤しか入っていない。それでよいのだ。色々な事を知り、不要なものは切り捨てていく。何かがあれば羊を数えよう、と。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村