日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

泪の量

一日に一体どれだけの涙が出るのだろう。人間の体の半分以上は水分という。体はある意味貯水池なのかとも思える。そこから出ていく水分と言えば、排泄物、汗、そして泪だろう。すると体重六十キロならば三十リットルの水分を放出できるのか。そんは話は医学的には成立しまい。まず脱水症状がおき生命にかかわるだろう。しかし涙ならいくら出てもたかが知れているのではないか。小さな目玉から溢れるだけだから。

我ながらよく泣くようになったな、と思うのは老境に入ってからだった。正確には会社を早期退職しガンに罹患してからだった。子供から青年を経て成人へ。親に育てられ何処かで独立して家庭人へ。いくつものステージが人間にはある。それを経るにつれ涙はいつか縁が遠いものになるように思う。成長とは涙から遠ざかる事、とも言えるのかもしれない。すると人は体が大きくなる代わりに感受性を放出していくのだろうか。それは悲しい物々交換に思える。

幸いに感受性が戻って来たのか増幅されたのか・・よく泣く自分は一日にどれくらい泣くのかを振り返ってみた。

映画やドラマでよく泣く。映画なら男はつらいよ、ドラマならNHKの朝ドラ。涙腺を崩壊させる為に脚本を書き演出しているのではないかとすら思える。音楽でも泣く。モーツァルトの明るさの奥に横たわる哀しみを視た時。ブラームスの甘美さが自分の心の脆い部分を揺らした時。ブルックナーの宇宙の向こう側に神秘を感じた時。自分の涙腺は緩み心は深く沈殿していく。

もちろん親しい友や家族との出会いと別れにも。見えない将来への不安にも。そう、いつも涙は自分の友達だった。

目の潤いを維持するために生理的に流れるものではなく、感情が揺るがされて出る涙の量はどれほどだろう。WEBで探してもその量をズバリ書いているサイトは無かった。毎月の血液検査で三本のシリンジで採血される量を採血中の看護師さんに聞いたら、ほぼ12㏄です。と答えられた。小さじ二杯程度とのことだった。涙はもちろんそれより少ない。小さじの半分も出ていないかもしれない。

病床で自分は実によく泣いていた。励ましてくれる友の懐かしさや優しさが胸に迫ったのだった。また、脳外科手術の影響なのかは分からないが涙が出るスレッシュホールドが下がったのかもしれなかった。看護師さんは定期的にベッドを覗きに来るが自分を見て「沢山泣いてセレトニンとオキシトシンを出してくださいね、嬉しくて泣く事はそんな幸せホルモンが出ますよ。そして病気を退治してくれますよ」と言うのだった。涙で病気が退散するなら簡単だ、と素直にそれに従い、今に至っている。

僕は直ぐに泣いてしまうので時々家人に冷やかされる。がそれが体に良いと知った今、何も恥じることなく堂々と朝から泣いている。成長とともに錆び切ってしまったであろう感受性。それが戻るのであれば僕はだんだんと少年に若返っていく事になる。瑞々しい感性を取り戻すことを誇りにしたい。そして更にこれが体に良いのであれば何ともありがたい事だと思う。

これからの生活で気をつけるべきは脱水症状らしい。高齢者は水分摂取が無意識に減るという。泪の量などわからないが、どうやらそれはたかがしれている。いくら流そうと関係しまい。すると泣くだけだ。まずは悲しい涙とはおさらばして感動と嬉しさの涙でスプーン一杯は泣いてみたい。そしてそれを増やしたい。

アヤメの花を見てもその盛りの短さを思えば、泣けてくる。

 

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