日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

雪の残滓

白一色の無機質な壁、重く響く画像診断機の音。雪が降り続くとすべての風景は白に閉ざされる。美しいものも汚れたものも覆われて、区別がつかなくなる。白とは不思議な色だ、と滉一は思った。

自分の病で来たのではないにも関わらず、白い部屋は何故か心を落ち着けてくれる。眼の前の壁が縦に伸び横に広がった。それはなぜか滉一を包みこんでしまう。彼はいつか白い壁に溶け込んでいた。そこに安堵があった。

CT室.、MRI室、血管造影室、放射線治療室。どれほどの白い「室」に通ったのだろう。脳腫瘍の術後様子を見る。血管にカテーテルを入れる。放射線を頭に当てる。ここに来れば病は遠ざかる。それは彼が癌と戦った記憶だった。

九十になる母親を車椅子に乗せ、かかりつけの訪問診療医の紹介状を手にして来た病院だった。そこはもう十年近く前に姉を見送った場所でもあった。彼女は若年性の認知性で咀嚼も出来なくなり食物をつまらせての脳死だった。積極的治療はやめて心臓の動くままに任せた。

良い思い出がなかったがそこが一番近かった。あの時あれほど悲しんだにも関わらず母はそこが姉の永遠の臥所となったことも覚えていないようだった。日々の中で見られる認知力低下、それに自覚せぬ体の震えは脳神経由来のものではないか、調べてみれば、と周囲の心配の声に従ったのだ。

滉一はといえばどこかで母の症状を見て見ぬふりをしていた。余り重篤とは思わなかった。認知は年齢並み。少なくとも食べて少しだけ動き、出している。この年齢の人間を精査したら何らかの予期せぬ病があるだろう。今更それを知ってどうするのか、治療に耐えうるのか、敢えてそうするのか、と何処かで思っていた。薄情な息子だと思う。

昔から自分の価値観を子供に押しつけ、圧の強い母を好きに思えなかった。特に結婚してからは事あるごとに妻への一言を本人にではなく滉一自身に言う。言いがかりは聞くに耐えない。許せなかった。自衛策として滉一は家族丸ごと母から距離を置いた。またその後の7年間の一家での海外赴任は格好の言い訳だった。

帰国して久しぶりに顔を出すと滉一の父は要介護の認定を受け介護サービスのお世話になっていた。母は転倒・骨折し要支援の介護認定を得ていた。父はそれから四年近く施設で過ごして世を去った。男として社会人として父には純粋に感謝があった。母にも程なく介護サービスの手が入った。

もう許してもいいのではとも思う。しかし老いゆく母を前にしても尚、面と向き合うと滉一に湧き上がるのは怒りと不快だった。古い価値観の塊が許せない。自分の中に夜叉がいる、そう冷静に視る自分が居た。

介護サービスを使うとはいえ様々なアレンジをケアマネージャーと計画し、手を焼くのは滉一しか居なかった。苦々しい思いで面倒を見るが、実際にどんどん小さくなっていく母を見ると複雑な思いがするのだった。

画像診断を含む脳の精密検査は二週間後になった。白い部屋にて何かが怖いのか、母は車椅子から妻にすがりつき泣いているのだった。あんなに彼女を嫌がっていただろう、バチが当たったんだよ。謝ってくれと心の夜叉がそう言う。

白い部屋を出た。会計を終えて帰路についたときに一瞬錯覚したかと思った。周囲はまだまだ白だった。自分自身がまだあの白い壁の中に塗り込められているいるのかと思った。するとそこは安堵の場所のはずだったのに、違った。首を振ってもう一度見るとそれは建物の隅に残る残雪だった。一昨日降った雪がまだ残っていた。しかし数日で消えてゆく。

海近い街に降った雪など儚いものだった。白い雪の塊、それは体も脳も小さく縮んでいく母と同じだと思った。この時初めて母の哀しみを知ったように思えた。

雪の残滓をしばらく見つめた。かろうじて射し込む西日にそれは確実に小さくなってゆく。自分にはなにもできない。ため息を付いたら吐息は溶ける雪にまじわり白く消えた。

いつ素直になれるのだろう。滉一には終りが見えなかった。

終わりの見えない日々は雪の残滓に彩られていた。何故だろうその色は滉一に安堵感を与えるのだった。

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