日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

つがい

♪しょ、しょ、しょじょじ、しょじょ寺の庭は・・・

さて皆出て来い来い来い、となるのだろうか。てっきりこの唱歌はこのお寺が場所なのか、とずっと思っていたがどうもそれは違うようだった。千葉の木更津らしい。しかし童謡の場所を探し当てて何の得があろう。なにごとも現実解に結び付けるほどつまらない事は無い。想像の世界で遊ぶことは楽しい。

実際にニ十体以上の狸の置物が参道に並ぶこの寺にいると、彼らはやはり月夜に誘われて出てきたと思う。そこは確かに月がいかにも綺麗な場所に思えるのだから。

歌はともかくも、どうやらこちらはこの寺の話らしい。

和尚さんは居眠り中。すると彼が何処かで手に入れた茶釜から手足首が出た。不気味に思い屑屋に手放してしまう。屑屋はそれを大切に扱う。するとその茶釜が綱渡りなどの芸をするではないか。見世物として繁盛し屑屋は一財をなしその茶釜を和尚に返す・・・。ご存知、童話「ぶんぶく茶釜」。茶釜はもちろん狸の化身で、大切に扱ってくれたことの恩返しをしたのだった。狸の恩返しは日本の民話には良くある話だろう。山里で一番人間の生活圏の近くに住む野生動物の狸は、何かにつけ騙されるが、大切にされ、木の葉をお札に見立て人に恩を返している。そしていつの間にかふぐりをだらりと垂らして徳利を握っているのだから可愛らしいことこの上ない。

数年前にこの寺を訪れた。真夏の暑い日だった。そこは毎夏40度を超える場所としてテレビに取材される、そんな地域の一角だった。ぎらぎらする日の下で参拝をしてからこれまた時が止まったような門前のお土産屋に寄った。参道に並ぶ狸の置物に感化されたのだろうか、僕はそこで手のひらに乗る狸の置物を買った。オス・メスのつがいだったが何故だろう、僕はオスだけを買った。左右に徳利を持ち、陶器なのに一応ふぐりも垂れていた。ずっと机の上に飾っていた。間抜けな顔は可愛らしい。

何の理由であの時、つがいで買わなかったのか、と不思議に思うのだった。狸は確かに可愛いのだが何故か寂しく見えてきた。彼は陶器なのだからそんなはずはない。それは自分の心を写している。ずっと気になってしまった。やがて自分はその狸の場所を変えた。何か罪悪感があった。

つがい。広辞苑のお世話になる。「二つ組む事」「動物の雄と雌」「めおと、夫婦」と続く。土産物屋の店先で仲良く並んでいたつがいを僕は引き裂いたのだった。すまない事をしたと思う。これください、と選んだのは雄だった。雌の狸はひとりぼっちになってしまった。

先日その寺に再び訪れた。その為にだけわざわざ群馬県まで足を延ばす訳もない。他の用事をあわせたのだった。しかし寺は遠回りだった。敢えて立ち寄ったのはやはり気になっていたのだろう。上州からっ風を防ぐ為の屋敷森は今もそこかしこで見られる。赤城おろしの吹く日だった。相変わらずその寺の周りは世間から置いてけぼりにされていたような空間だった。この参道ではただ数軒のみが未だ暖簾を出している。数年前に雄タヌキを買ったお店はその一軒だった。実はその雄タヌキを自宅から持ってきたのだった。大小のタヌキが店先に並んでいる。あのときの彼女でなくてはいけない。それを見せ訳を話すとお店のお婆さんは笑ってそれでは、と探し始めた。しかし無い。僕は焦った。彼を買い求めたのは角の向こうの棚だった。するとそこには彼女が座っているではないか。只一人ぽつんと。赤いリボン、豊かな乳房、そして何だろう、木の葉を持っている。とても可愛いのだった。

これです、これ!。店の親父さんは笑ってくださった。手に握ってきた雄タヌキと雌タヌキはここで同じ包装紙に包まれた。再会を喜んでいたのだろう。わざわざこんな遠くまで来てくれて、ありがとうございました。と言われた。しかし礼を言うのは僕のはずだ。雌タヌキをよくぞ売らぬにおいて下さっていたと。

月夜だった。さて二体は踊り出すのか、茶釜に化けて手を出し足を出し綱渡りをするのか、分からない。ごめんね、と話しかける。彼らはただ笑うのみ。さて明日の朝目が覚めると何が起きているだろう。もしかしたら僕の布団の周りにはつがいのお礼、沢山の木の葉が落ちているのかもしれない。それならば明日はとてもよい日に違いない。

ごめんね、と言った。陶器だからずっと笑っている。しかし心の鏡は言う。気になっていたことが終わったねと。そう、明日は忙しい事だろう。

申し訳ない、数年間切り離してしまった。しかしこうしてまた一緒だね。今度はずっと机の真ん前に置いておこう。いつまでも仲良く、頼むよ。

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