日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

落ち葉とタヌキ

月めくりのカレンダーはあと二枚だというのに不思議な天気が続いている。冬至迄はあとひと月か。確かに日は日増しに短くなる。しかし肝心の空気には気迫が足りなかった。時折肌を刺すが昼間などはTシャツ一枚でも過ごせる。なんだか誰かに騙されたような気もしてくる。

今日はことのほか風が強かった。職場に行き戸外に出してある自転車を館内に収める。自分の仕事の日課だった。戸外の自転車置き場は大きなクロガネモチの木の下だった。自転車のカゴを見ると小振りの葉っぱが沢山積っていた。今日の風に耐えかねて、頭上の木から散ったのだと思った。

葉っぱでも沢山積ると風に舞い上がるだろう。それが路上に落ちるとアスファルトの上で車に轢かれるのがオチだった。また何かの拍子に自転車の視界を妨げるかもしれない。ようは自転車のカゴに落ち葉は不要なのだった。それを鷲掴みにしてカゴからごみ袋に無造作に捨てようとした。しかしそこで僕は手を止めた。思わず周りを探す。可愛らしい狸の子供でもいるのではないか、と思ったのだった。

狸が人間に恩返しする話はよくある。その対価はたいてい落ち葉だろう。落語好きの友人から教わった話だった。桂米朝師匠得意の「まめだ」(豆狸)という話は、微笑ましさを誘うようで自分には悲しい話に思えた。膏薬屋の息子で歌舞伎役者に弟子入りしている男は舞台でのとんぼ返りの練習をする。ある雨の日に傘をさしているとドスンと傘が重くなる。なんだ?と払い落とそうととんぼ返り。すると傘からなにかが落ちて逃げていく。それからしばらく、お店の膏薬がいつの間にかなくなっていき代わりに代金箱には銀杏の落ち葉が入っている。ある日、膏薬を体中に張った小さな狸が息絶えて横たわっている。とんぼ返りで落ちたのは子供の狸。彼はそれで体に怪我を負い、治そうと膏薬を買い体に塗っていた。代金は銀杏の葉っぱだった。みかねた息子は供養する。すると風が吹いて子狸の体に銀杏の葉が舞い積もる。ああ、狸の仲間からたくさんの香典が来た、と慰霊する。

なぜ子狸を死なす必要があったのか僕は作者を恨んだ。一度だけ路上を永遠の臥所にしたタヌキを見たことがある。何処かの山道だった。車にはねられたのか空腹で息絶えたのか。四肢を投げ出している彼の遺骸、それは決してソバ屋の店先で徳利をわきに抱えて笠をかぶっているとぼけてて笑える姿ではなく、野生に生きる立派な動物の姿だった。

僕が自転車の籠の落ち葉を簡単に捨てなかったのは、そんな落語の話が頭にあったからだったのだろう。それに、秋と言うのにこの異常にまで暖かい空気。はてこれは本当に「まめだ」の悪戯かな?と思ったのかもしれない。

結局僕の勘違いだった。狸はとうとう居なかった。堕ちていたのは銀杏の葉ではなくクロガネモチの葉だった。しかしじっと見ていると確かにこれを小判に見立てるのは面白いと思う。秋の小さな自然の恵みなのだから。僕は下手にそれを捨てて無造作に踏まれるのが嫌だった。籠から丁寧に葉をすくって、土に置いた。まめだと同じく、土に還るのだと思う。

これで魔法は解けたように思う。明日からはぐっと冷え込むだろう。もう十一月なのだからそうでなくちゃ、と思う。

風に舞った葉が自転車のカゴに積もっている。はてこれは?豆狸の悪戯かと思ってしまう。

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