どの国にも美味しいパンがある。日本なら食パンだろうか。イギリスのパンから来たようだが日本の食パンは柔らかさを追求しているようだ。実際テレビのコマーシャルも生の食パンが如何にふわりと千切れるかを見せるシーンが多い。似た形でもこれをイギリスで食べると食感はポソポソとしている。ソフトな食感は日本人の好みなのだろう。
ドイツで自分が好きだったのはブレートヘェン(Brötchen)と呼ばれる手のひらに乗る丸パンだった。外側はこんがり焼けて中身は多少柔らかい。会社の食堂では牛肉の赤ワイン煮・グラーシュズッペが安く食べられたが、それにピタリとあう。残り汁を一かけらのパンで拭うように食べるともう一杯欲しくなる。ライ麦の酸っぱいパンも嫌いではないが、やはり好みは前者だった。
フランスはバゲットの出番だった。街中にブランジュリーがありそこで焼きたてを買う。一ユーロもしない。バゲットの値上げを巡ってストもあった国だから生活の中に溶け込んだパンだった。とあるブルーゴーニュの丘陵をサイクリングしていた。ブドウ畑の坂道をギアをローローにして登りきると小さな集落があった。教会の前で一休みしていると車が登ってきた。車のスピーカーからは長閑な音楽。すると家の扉が開いて三々五々人が出てくる。それはバゲットの移動販売車だった。朝一番で下界で焼いたもの。皆喜んで手にしている。バゲットの横にはまあ考えたものでチーズもボトルのワインも置いてあるではないか。ブドウ農家にワインを売りに来るのもおかしな話だが、これらがフランス人の食生活の基本なのか、そう僕は彼らの買い物を眺めていた。バゲットはどのブランジュリでも包装などしない。裸か、ありきたりの紙をバゲットに巻き付けてその端を一ひねりするだけだった。その気負いのなさが、風景だった。実際それを小脇に抱えたマダムはパリの石畳と石造りの家に溶け込んでいた。
バゲットの美味しさは表皮の香ばしさと空洞だらけでもしっかりと歯ごたえがある中身。そして適度な塩分だろうか。グラーシュズッペと同様に例えばラタトゥイユが食卓にあれば誰もが間違えなくバゲットでそれを綺麗に拭って食べる。ドイツ人もフランス人も似たようなものだと思う。
とある高原に出かけた。犬連れの日帰り小旅行だった。そこはパン屋の激戦地でもあり、レベルが高い。下手をすれば東京のパン屋より高いかもしれない。自分も何軒か好きな店がある。そこでバゲットを買おうとしたら売り切れていた。代わりにバタールが在った。バタールはバゲットよりも太目で短い。まぁ親戚だろう。こちらは中身がもっちりとして多少は柔らかくなる。それは好みではない。しかしこの店に関してはバタールも十分歯ごたえがある。それを買って帰った。
やはりチーズとワインになる。夕食にはサーモンとほうれん草のキッシュを解凍し缶入りのツナとオリーブを載せたサラダを添えた。ワインは一本500円のチリの赤で自分は満足だった。チーズに至っては4個百円のベビーチーズだった。
今日の高原での出来事やその地での犬のしぐさ、そんな事を話しながら食事は進んだ。気づけば大きなバタールが残り数センチだった。ええぃ、食べちゃおう。そう話してそれは二人の胃の腑に収まった。
夫婦二人の夕食でバゲット一本。これがどの程度の炭水化物摂取量なのかにわかには分からない。が間違えなく食べすぎだと思った。しかし美味しいのだから仕方が無かった。実は買う時にいつも思う。これ、きっと今晩で食べきるなと。しかし分かっていても買ってしまうのだから情けない。
美味しいものを美味しく食べられたのだからいいよね、と話した。しかし当面ベーカリーには近づくまい。好きなのに食べないほうが体によさそうに思えるものが最近増えてきた。バゲット一本パクパク食べて何が悪い。人間の退路の端緒は食欲の減少からと聞く。ならば美味しいものがこの年齢でもあることはありがたい。今度は新聞紙の切れ端でも持っていき、紙袋に包んでもらわずに自分でくるりと巻いてみたらかっこいいな、そんな夢想をした。