日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

天上の音楽とは

都会を飛び出してハイキングをしてみよう。どんな山でも全くの奥山でない限り、山の斜面のかなり上まで集落が広がる事を目にするだろう。

静岡ならばそれは茶畑だし甲府盆地であれば果樹園だ。何も農作物に関連した集落ばかりではなく、山の古刹の門前集落。そんなところでも人間の営みがある。しかし人々の日常の買い物は大変そうだ。なにせ下界はやや遠い。が、そこはうまく出来たもので、軽トラックの移動スーパーが大活躍しているのだった。コメ、飲料、肉、魚、加工食品、嗜好品、日常生活用品・・・積載方法を考えそれらを詰め込んだ車はさながら移動するコンビニ。限られたスペースで何が売れるのか。仕入れ側も知恵の絞りがいがある。品ぞろえの多様さはコンビニ以上に厳選されているだろう。彼らは集落の一か所で車を停めるとスピーカーで音楽を鳴らす。「はい、皆さんお待ちかね。移動スーパーがやってきましたよ」。そんなメッセージだ。すると、集落の方々が三々五々車に集まってくる。

驚いたことにそれは海外にもあった。フランスだ。ブルゴーニュ地方のサイクリング。ブドウ畑を緩やかに登り詰めると小さな教会があり、それを中心とした可愛らしい集落がある。フランスの田舎ならありきたりの何処にでもある光景だ。そんなところに小型のバンがやってきたのだ。パタパタと車の外枠を外すとショーケース。そして音楽を鳴らし始める。なんだ、日本と同じだな。ちょっと失礼、覗かせていただきましょう。お、商品は焼きたてのバゲットとチーズ、ハムか。ワインも手ごろなものが、積まれているな。なぁるほど、さすがにフランスだな。

山の集落で流れる音楽は、営みの証だ。毎日ではないかもしれない。しかし今日は待ち望んだ食料がやってくる。集落の人々はいそいそと家を出るに違いない。 山の上を「天上」と言うのならば、天上に流れる音楽は、人々に生きる楽しみを与えてくれるのだろう。

* * *

先日とある山をハイキングした。都心から遠いが、いわゆる里山的な場所だ。高くもない丘陵には林道が伸びて、山上集落も多い。そんな中を行く林道のカーブを曲がると、音楽が流れてきた。同行していた友が「音楽が聞こえるね!移動販売車が来ているのかな?」と口にした。しかしそこは切り立った崖を行く林道で、集落が辺りにある気配はなかった。地形図にも集落マークは無かったのだ。

カーブをいくつか回るとますます音楽が大きくなり、響いていた音もまとまってきた。流れているのはモーツァルトのピアノ協奏曲20番の第2楽章であることはすぐにわかった。なるほど山で短調の20番を流すとは、なかなかセンスある移動スーパーだな、と感心して次のカーブを曲がった。音の主は目の前で、それは小さな白い軽ワンボックスカーだった。

それは移動スーパーではなかったが、車のカーゴスペースに山摘みの荷物はさながら移動スーパーに近かった。リアのハッチバックゲートを上げてそこにテーブルと椅子を置いて、お年を召した男性が一人遠くを見ながらコーヒーを飲んでいるのだった。家庭用のカートリッジ式ガスコンロの上にはパーコレータが湯気を上げていた。

モーツァルトはお好きなんですか?」会話の端緒は何でもよかったが、自分と同好の士かと思い、そう声をかけた。

「いや、なんでもいいんだよ。たまたま、これがかかっていたから」

しかし、ひと気のない林道で、目の下にはコアジサイが咲く斜面。ガスが出ていて対面の尾根が見えないのだが、それが却ってモーツァルトに似合っている、と感じた。20番の第2楽章ロマンツェは映画音楽になるほどの美しさがあり、その音が霧がちの山の風景に消えていく様は、なるほど、ここはやはり「天上界」ではないか、と思うのだった。このロケ-ションでこれを流すのか。必ずこれはあの男性のコレクションだろうと思い、誰の演奏なのか、フリードリッヒ・グルダだろうか、聞こうと思った。が、それよりもその男性に対する興味が勝ったのだ。

「こうやって、気の向くままに出かけているんだよ。荷物は多いけど、外に出せば車の中で寝泊まりできるからね」

確かに車の中はプラコンテナやトロ箱が山積みで、自家発電機と缶入りの燃料も常備されているのだった。言われる通りこれらを整理して就寝スペースを作るのも大変なのかもしれない。しかしこれならば地の尽きる場所まで走って行けるだろう。

彼はいかにもコーヒーを勧めたそうだったが、こちらにも時間の制約があった。白いワンボックスは相変わらずゆったりとロマンツェを奏でている。自分はこの協奏曲はそれまでのなごんでいた空気を切り裂くようなピアノの打鍵で始まる第三楽章がなによりも好きで、その一音を聴きたかった。が、悠長に流れるモーツァルトは自分には無関係に霧の中に音楽を溶け込ませていくのだった。

子供の頃に、夢があった。地元の街の運河沿いだった。そこにはいくつものリアカーが置いてあり、荷台には段ボールで出来た家のようなものが載っていた。それを見て思ったのだ。あの荷台に住んでみたい。好きなところに行けると。それを聞いた母親は自分をたしなめたが、自分にはその理由はわからなかった。しかしそれを言うことはそれからは自らを戒めたのだった。

モーツァルトを聴くあの男性は、もしかしたら自分と同じ想いを胸に、年齢を重ねたのだろう。ご高齢にも関わらず、やりたいことに向き合い嬉々としてそんな想いを実現しているとは、自分には眩しく思えた。

天上の音楽はそこに住む人に喜びを与え、一人旅の旅人を和ませている。カーブを曲がると音楽は聞こえなくなった。しかし頭の中には第三楽章の始まりを告げるピアノの一打が鳴り響く。

自分もいつの日か、あんな風にやりたいことをやってみたいものだ。夢を忘れてはいけない。そして自分も好きな音楽を「天上の音楽集」とすることだろう。バッハなのかモーツァルトなのか、自分は何をそれに充てるのだろうか。愉快な妄想は続き「音楽集」を選ぶのも又、楽しい夢となった。

おっと、このあたりで林道から尾根にのらなくてはいけない。「天上」で聞いた「天上界」の音楽はこのあたりで終わりだ。立ち止まり地形図を精読する友の姿に我に返った。

このピークから下山路だな。気張れば最終バスにも間に合いそうだな。今日も素敵な、山旅であった。

左:サイクリングで訪れたフランスの田舎。丘の上の小さな集落に移動販売車がやってきて優しい音楽を流し始めた。すると集落の人々が三々五々やってくるのだ。出来立てのバゲットにチーズ。それに何よりも大事な事、今宵の赤ワインを買うのですね・・。 
右:奥多摩の山上集落に、軽快な音楽と共に移動販売車がやってきた。雪の中、ありがとう。お陰様で、今夜は刺身が食べられそうだね・・。

動画サイトより;

モーツァルトのピアノ協奏曲20番K466 内田光子の弾き振りの映像がありました。溌溂として素敵な演奏です。山で出会ったあの男性が好きでやまない曲なのですね。
https://www.youtube.com/watch?v=yM8CFR01KwQ