日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

隠れ家にて

そこは隠れ家のような店だった。赤坂から乃木坂に抜ける緩い上り坂から少し奥まった場所だった。

木の扉の上部にだけ細長いガラス窓が在った。この中を覗くのは勇気が必要だった。扉を開けるとマスターが店の準備をしていた。彼に会うのはもう四十年ぶりに近かった。

コートを掛けて挨拶をした。彼は店の名前が書かれたポロシャツを着ていた。面影は残っていた。すぐに時が埋まった。暫く彼と話をした。約束時間だった。次々と懐かしい面々がやってきた。大学時代のクラスメイト六名。自分は彼らとこの数年にわたり何度か会っていたが六名の中にはやはり四十年に近い再会もあった。

髪の毛が減る、白髪になる、体が一回り大きくなる。あるいは痩せる。そんな程度の変化はある。大病をした者、退職した者、現役で頑張る者、事業を拡大していく者、様々だった。しかし長い空白期間もすぐに埋まるのは四十年前の彼らの笑顔が強く心に残っているからだ。皆の笑い顔は過去と現実を結び付ける橋だった。

なんとなく垣根が在った。通っていた大学には付属の幼稚園から高校まで揃っている。全部を通したら一体学費がいくらなのかは計算する気にもならない。クラスメイトには中・高等部から上がってきた人もいた。付属から来た学生、受験して入学した学生。また、首都圏育ち、地方育ち、色々だった。受験してきた学生たちはやがてグループにまとまっていく。一方で中・高等部からの仲間たちも塊となっていく。そんな風に思えた。

実際に中・高等部出身者のうち一部は十八歳にして自分のクルマを持ちそれで大学に通っていた。当時はサーファーが人気となっていた。実際に海に行かずにその恰好だけする「陸サー(オカサー)」という言葉は今もあるのだろうか。トップ・サイダーのデッキシューズ、ファーラーのパンツ、そんなファッションをキャンバスに持ち込んだのも彼らだった。それらの仲間と自分達には太い線引きが在ったように思えた。実際に何かの具合で彼らと面と向かっても会話のネタを探すのに苦労した。

隠れ家のマスターもまた、高等部から上がってきた。クラスメイトだった。しかし大学のクラスとは緩いもので担任がいるわけでも、ホームルームもあるわけではない。多くの学生を整理する必要上、便宜的に編成されただけだった。結局彼とは学生時代に交わした言葉は幾らもなかった。地方や首都圏の公立高校卒業の仲間の中で自分は完結していた。とあるきっかけで彼の店を知ることが出来た。赤坂で店をやっているとは驚いたが今度仲間で集うときには使わせてもらおうと思った。電話をかけると彼は僕の事を覚えていてくれた。またつるんでいた仲間たちの事も懐かしいと言ってくれた。そしてスマートフォンから聞こえてくる彼の声は僕を瞬時にあの頃へと戻してくれた。

そう、皆同じクラスだった。いくつかのクラス全体で受講する教科もあっただろう。そんな時彼とも話したのだろう。彼はカウンターの奥で料理を作りながら時間が空いたら僕らの席の隣に座り話をした。四十年の空白は一瞬にして埋まった。彼は三十代の半ばで会社を辞め、いまは赤坂で店をやっている。色々な苦労があったのだろう。また夕方から翌朝早朝まで店を開けているという。昼夜逆転に近い。場所柄芸能人も来るという。オフレコにすべき話題も聞こえてくるという。しかしきっと彼は笑顔を浮かべ聞かぬふりをして料理を作りグラスを拭くのだろう。

皆、等しく歳月を過ごして来たのだった。今思えば馬鹿馬鹿しい。辿って来た道が違うだけで仕切りを作ってしまい交流もしなかった。壁を作ったのは自分の勇気のなさだった。彼らと触れあえばまた異なった事、何かを得られるチャンスだったかもしれない。彼の柔らかな語り口と笑顔を見ながら誰も皆同じだ、と思うのだった。

気づけば時計は回り日付が変わるのにあと一時間半も残っていなかった。六名に加えてもう一人の旧くて新しいクラスメイト。キャンパスの教会、並木道。青山の地で共に学んだ仲間達。そんな全員で記念写真を撮った。今度いつこの隠れ家に来るのだろう。

赤坂のビルの谷間にひっそりと会った隠れ家。そこのマスターの笑顔にも声にも覚えがあった。

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