日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

風のいたずら

夜道を自転車で走っていた。仕事帰りだった。この時間は住宅地のバス停で降りた客が散っていくと路地を歩く人など誰もいなくなる。風の吹く夜だった。いや、木々は揺れるのだが風はもっと高い空に吹いていたようだ。その余韻が舞い降りて下界の木立を騒がせていたのだろう。

向かい風を僕は感じた。すると南から吹いていることになる。尤も自転車も南へ向けて走っているのだから南風なのか自転車が空気を破る抵抗が風と感じられたのかも判別しかねた。そんな程度の風だった。

前方に灰色のコートを着た男性が歩いていた。街頭に浮かぶ彼の影を見て辛うじて灰色なのだろうと判った。余裕をもって彼の横を通り過ぎた。その時だった・・・。

パタッと何かの音がした。彼が何かを手から落としたのだろうか。いやもしかしたら上着のポケットから自分が財布あたりを落としたのではないか。急ブレーキをかけて彼を待った。聞いてみたが彼は何も落としていないという。やはり自分の財布か。あたりを見回した。財布と思ったのには訳があった。脳外科手術で癌を取りその後半年間抗ガン剤と放射線の生活だった。病院帰りにタクシーに乗った。降りて十分後に財布が無い事に気づいた。それを拡げ金を払ったのに何処へ行ったのか。四方手を尽くしたが見当たらない。脳が未だきちんと動いていなかったのだろう。自分はその時から自らの脳を信じられなくなった。必要以上の注意を払うようになった。

自転車を止めて探しても音の主が分からなかった。財布は自分のポケットにあった。その時だった。足元でまた同じ音がした。そして分かった。それは松ぼっくりだった。暗い路面に二つ、落ちていた。

腑に落ちなかった。あの松ぼっくりは何処から来たのだろう。ここは渚通りではない。むしろ丘陵地の上だった。しかし森や林などとうに無くなり老熟した住居があちこちで壊され建て替えられている、そんな街路なのだ。大きな敷地の家も幾つかある。もしかしたら松の木が植えられているのかもしれなかった。しかし見上げてもそこにあったのは風に揺らぐ暗い影だった。

あくる朝、歩いていた。すると民家の垣根に伸びた松の木が確かに在った。道路にはみ出しす枝ぶりだった。少しだけ見上げるとそれは目についた。しかし昨夜の松ぼっくりはもう路面にはなかった。風に吹かれたのか、自動車に轢かれたのか、小学生が蹴って歩いたのか、分からなかった。

風景を自分はじっくり見ていなかった。十年以上気づかなかった。興味を持たなかったのから見えなかったのか。それほど急いでいたからか。ではなぜ今、視えたのだろう。

そうか、あれは風のいたずらに違いない。もっと視野を広げなよ、という事を少しいたずら心で松傘を落とすことで気づかしてくれたのだろう。

これからはのんびり生きようと口癖のように言ってるくせに本当にそうしているのかい?空を見る余裕もないのか?いろいろ見てごらん、貴方の知らない光景も、そして世界もあるんだよ。

そう言いたいのだろう。随分と手の込んだ方策だが目を覚ましてくれるには十分だった。心の余裕が視えるものを増やす。それは素敵な戯れの風だった。

 

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