日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

岸辺のサックス

ここ数日で空気は柔らかくなってきている。少なくとも一週間前とは違う。たしかに、立春は超えていた。誘われるように外に出た。自転車は久しぶりだった。余りの寒さに休業だった。しかし近所の川岸はサイクリングロードになっていて、少し走ったら気持ちいいだろうな、と思ったのだった。

随分と春らしくなったのは川岸の人出の多さでも感じる。バーべキューセットを持ち出してメザシを焼きながらワンカップを並べた真っ赤な顔のおじさん達。口を結んで前を見据えて走るランナー。乗れたばかりの小さな自転車で走り回る子供達。トロトロ走る自分を邪魔だと言わんばかりにかわして走り去るロードレーサ。

風に流れて、音色が響いていた。サックスの音だった。川面を渡ってくる音色は水面の波のように揺れるので、きちんと聞き取ることは難しい。しかしそれが「ザ・チキン」(*)であろうことはすぐに分かった。なにせ誰もが知るであろうあの有名なフレーズを吹いているのだ。

自分にその曲を教えてくれたサックスプレイヤーの顔が浮かぶのだった。

そのプレイヤーは、奏者でもあったが簡単に言うと学生時代の友だった。当時暇さえあれば竹ベラを口にして湿らせてたのだった。「リードだよ」と彼は言う。あの頃から今に至るまで大好きなヤツだ。

彼については語りだすと止まらない。いくつものエピソードがあった。あいうえお順にならんだ新入生。自分の前に立っていたデカい男だった。自分と同じく中国地方の出身。住んでいたアパートも近く、お互いの部屋を行き来した。大学3年になりヤツは学校に来なくなった。心配して見に行くと「ワシはもう学校には行かん。ここで働くっちゃ」と言う。下宿先の近くのスーパーでアルバイトしていたヤツは同僚の女子高生バイトにベタ惚れだった。知ってはいたがそこまでの熱情とは思わなかった。ヤツは緑色の前掛けをしてレタスをショーケースに嬉しそうに、そして丁寧に並べていた。来るお客様には必ず愛想良く一声。そして笑顔。

彼の足は同郷県人の松田優作のようにすらりと長く、また背中はジャイアント馬場の様に大きかった。人懐っこく笑うと大きなメンタマの周りに皺が寄った。「幸せの笑い皺」、そう呼んでいた。遊びが出来ないまじめな男で、男前で恵まれた容姿なのに純なところがヤツの魅力を倍加させていた。

心配ご無用、彼の初恋は秋風が吹くころに泡のように飛んで行った。学校にも来るようになり彼は再び幸福な皺を周囲にばらまいた。郷里に帰り「地元のための金融機関」に就職したのも、またヤツらしかった。卒業以来、ヤツの結婚式も含め800キロ離れた町には何度も遊びに行った。地元の金融機関という事でヤツが街を歩くと5分以内には必ず知り合いに会うのだった。その都度大切な融資先や預金者へ、ああこんにちは、と気軽に大きな手を上げて、最近どうですか?とじっくり話し込むのだった。そこに人柄がにじみ出ていた。

ある年、妻子を同行して遊びに行った。観光もあったがなにより素敵な彼に会いたかった。相変わらず街で挨拶ばかりする男を前にして、酒席では余りの立派さに妻と娘たちの前にも関わらずにかかわらず号泣した。

お前、バイトで学校辞めなくてよかったな。貴方のお陰で多くの地元の方々も企業も助かっているよ。大人になったんだよな、お互いに。

最期に彼と会ったのは2年前になるだろうか。病が明けて半年後にヤツに会いたく彼の住む町へ行ったのだった。分かれる際に改札の向こうで、じゃあな、また会おう。早く戻れよ、と手で返した。しかし振り返るとヤツは大きな体で改札の向こうでずっと手を振ってくれていた。涙が溢れてヤツの姿が滲んだが、ヤツもまた、泣いていた。

岸辺のサックスはたちどころにそんな彼を思い出させてくれた。隙間風でも吹いてきそうなオンボロな自分のアパートに来てはヤツはサックスを吹いていた。管の先端をこたつの中に入れて吹いていたのは少しでも音が漏れぬようにという配慮だったのだろう。

彼がザ・チキンを吹いたのかは覚えていないが、向こう側の岸辺で一心不乱に吹き続けるプレイヤーは、やはりヤツなのだろう。いや、こんな春の陽気に柔らかい音色を奏でるのはヤツでなくてはならない。そんな気がした。少し涙でが出てしまい春の風がそこだけ冷たかった。

アパートに来てはさらりと吹くワンフレーズ。もう一度聞かせてはくれないだろうか。

 

(*)「ザ・チキン」:ジェイムス・ブラウンのバンドに在籍していたサックス奏者Alfred Ellise作。動画サイトより。友が教えてくれたのはジャコ・パストリアスがゴキゲンなベースを弾くバージョンだった。オーレックスジャズフェスティバルのLP。あれ、もう一度彼のレコードで聴いてみたい。
https://www.youtube.com/watch?v=IKKL8-hOjx0