日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

教えと祈り

歌と楽器。どちらが先に生まれたのだろう。現代のデジタル知恵袋であるネットの知恵を借りると旧石器時代から打楽器が見られたとあり笛も同様のようだ。鍵盤楽器も紀元前、弦楽器は中世とある。

誰しも嬉しい時、悲しい時に歌が寄り添うだろう。歓びは歌になり歎きも然り。歓びを鼓舞するために打楽器が生まれたのも想像は容易であり、歓喜や哀悼の旋律を歌うために笛ができたのも必定だろう。

世の宗教でもっとも古いものは何だろう。イエス・キリストとは別に異教徒の存在が既にあったことは新訳聖書に書いてある。ユダヤ教だろうか。仏教はそれ以前か?イスラム教は?それら経典を伴う宗教として纏まったものでなくとも原始人は太陽と火、これらに恐れおののき拝んだのではないだろうか。そしてそれらを賛えるために踊り歌ったのではないか。すべては自分の想像にすぎない。しかし古代の土器や壁画などに楽器が描かれたものもある。すると歌、音楽、祈り。それらはひどく人間の持つ原始的なエネルギーに思える。そこに唯一神が登場すれば、誰もがすがり祈るだろう。

神に祈ること。西洋音楽の古道を現世に向け歩いているとそのテーマは不可避に思える。グレゴリオ聖歌からモテット、カンタータ、ミサ曲。規模の大小を問わずに多くの祈りの曲がある。歌だけのもの、器楽が加わるもの、いろいろだ。異教徒の自分ですらどれを聞いても心動かされる。

友人の奥様が合唱団に所属されている。友の伝手で聞きにく演奏会は二度目だった。前回はイエスの受難を歌ったバッハのヨハネ受難曲だった。二時間を超えた演奏は客席にも緊張を求めた。ステージを終えアルトを唄われる友人の奥様とご挨拶をさせていただいた。次回はバッハのモテットを唄います、と言われていた。その次回がつい先日だった。

モテットとは「元来は聖書の言葉を歌詞とする中世の無伴奏多声部合唱曲。 ただしバロック後期以降は、バッハに代表されるポリフォニーによる短い宗教的合唱曲を指すようになった。」とWEBにある。多声部合唱とポリフォニー。この二つの言葉が僕を捉えて離さない。バッハのモテットはフーガとカノンにあふれポリフォニーが立体感を造形する。合唱による対位法の実現だ。

今回のステージは伴奏にはオルガン。それも荘厳に響くパイプオルガンではなく明るく柔らかいポシティブオルガン。そしてチェロが一本置かれているだけだった。優しいミニマムな伴奏は合唱を前面に押し出すためだろう。演奏曲はシュッツ、バッハ。そして二十世紀の作曲家マルタン、現代に生きるペルトの合唱曲だった。曲によってソプラノ・アルト・テノール・バスのコーラス陣のステージの立ち位置が変わるのは何故だろう。それはやはりポリフォニーを聞き取りやすくするための音響効果を狙ったものではないか。

プログラムは凝っていた。合唱に加えバッハのファンタジーなどパイプオルガン独奏もあった。

前回同様に合唱は澄んだ響きが素晴らしかった。耳も肥えていない自分にはアマチュアとプロの垣根など無いように思える。初めて聞く二十世紀や現代の祈りも心に響いた。配布されるプログラム冊子。中折のA4版、カラー印刷の凝った冊子には曲についての細かい解説があった。今回の演奏会のテーマは「平和への祈りと新しい年への希望」とあった。相応しい選曲であり演奏だった。

争い、天災。混迷の絶えない今。個人においても解のない出来事に悩む日々。神への祈りの歌があった。古来からの人々がそうであったように、演奏会のテーマのように、自分も願った。音楽は何かの道しるべのように思える。

伴奏器楽は最低限。透明な合唱には真摯な祈りを感じた。

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