日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

モノの見方は一つではない

音楽の旧訳聖書…。難しそうだな、そう身構えると、損をするのではないだろうか。なにせ少しでもその頁を開いてみるならば果てしない宇宙の広がりに接するのだから。

JSバッハの平均律クラヴィア曲集。上巻・下巻、計48曲。1オクターブにある12音。それぞれに長調短調がありその個々の調性で作ったので計24曲、それが2巻で48曲。おのおのがプレリュードとフーガで構成されているので、96の楽曲だ。これがなぜ音楽の「旧約聖書」と呼ばれるのか。これをマスターしたら演奏者としては必要なすべての技量が得られるから?CD4枚という余りにも大きな作品集だからか?恥ずかしながらもその理由はわからない。しいて言えば、簡潔なので如何様にでも解釈できる、といったところだろうか。

過剰な感情表現もない、禁欲的とも思える必要最低限の音で作られるポリフォニックな音は、聞けば聞くほどに新しい発見に満ち溢れる。音が重層的に絡まり立体世界を作り上げる、その妙はいつでも自分を虜にする。ベートーヴェンショパンの様な不遇を恨む絶望も熱情も、荒ぶる感情の嵐も勝利も、そこにはない。ただただ淡々とした清澄な響きがパズルの様に律義に複雑に絡まっていくだけだ。感情を排した、理系の音楽と言えるかもしれない。

そんな音楽にはどのような演奏が良いかと考えると、やはりその音の絡まりを綺麗に可視化してくれる演奏が相応しいのではないか。いや、そんな演奏でこの曲に接したからそう思うのかもしれない。それは20歳の頃に知ったグレン・グールドの演奏だった。

なによりも主旋律と対位旋律の動きが手に取るようにわかる。それは演奏者独自のルバートにも因っているのだろうか。竹を割ったかのような明快な演奏に惹かれて、この旧約聖書はこのレコードで充分。そんな満足で浮気もせずに二十年は過ごしただろうか。

しかし同好の士から違う演奏を教わる。そして触れてみる。ピアノだけでもスヴャトスラフ・リヒテルアンドラーシュ・シフ、フリードリッヒ・グルダ。またチェンバロやオルガンでも触れてみる。それぞれの楽器に、演奏に良さがあり、いずれをも均等に聴いているうちに、気づいた。

「聞き馴れたこの曲を残響豊かにレガートで演奏するのか。グノーがアヴェ・マリアにしたのもわかる。これはまさに神様への「祈り」だな(上巻第1曲BWV846・リヒテル)」

「あれ、この曲のプレリュードには、こんなに柔らかく静かなセンチメンタルさがあったのだっけ?ゆっくり演奏するから聞こえてくる音なんだな。これでは、相聞歌だな。(下巻第12曲BWV881・グルダ)」

「あっさりと聞き流していたけど、特にフーガがこんなに深い感情なんだな。一音の重みがすごいな。(下巻第24曲BWV893・グルダ)」

チェンバロやオルガンで聴くとピアノとは別の空気感があるな」

様々な演奏での全48曲は、ただただ初めて感じる魅力に満ちて、全くの新しい曲に聞こえたのだった。自分はいったい何に固執していたのだろう、と愕然とした。

曲自体が骨格だけで、余分なものが無いからこそ、楽器の違いやホールの違い、そして演奏者の解釈がダイレクトに反映されているのだろう。

「音楽の旧約聖書」に、いくつかの解釈で触れることが出来たのは幸せだった。確かにこの聖書はいかようにも解釈が出来、気づかなかった事を教えてくれる。

自分はどうも、直感的に、言い換えればまるでなにかの啓示に触れたかのようにパッと物事を決めることが多い。人から見ればそれは軽挙妄動だろうし、事実、会社生活においては、それはいい結果を生んでこなかった。やはり幾つかの選択肢を考え、それぞれの良しあしを考えたうえで道を決めなくては。今になりそう振り返って思う事も多いのだ。

一つの考えやモノに固執すると、大切なものを見逃す。だから早々にこうと決めつけずに、色々な人の声を出来るだけ聞いてみる。それぞれに皆さんの経験に裏付けられた意見なのだから、それは重い。それを受けて答えを求める旅もまた楽しい。そして、そこから解を導き出すのは、自分なのだ。

音楽の旧約聖書の様々な解釈に触れて、モノの見方はひとつではない、そんな事に今ごろになって気づく。遅いのだ。

バッハの平均律。多くのソリストがこの巨大な音の伽藍に挑む。ピアノ、チェンバロ、オルガン。すべてを許容し、いかなる演奏も受け入れる。ミニマムな音が絡み合い、宇宙を創る。これが旧約聖書と言われるゆえんか。

上に揚げた曲の動画サイトは、アンドラーシュ・シフのライブ映像があった。彼は一晩で48曲、96の前奏曲とフーガを弾いたのだろうか。素敵な演奏会だ。

BWV846 https://www.youtube.com/watch?v=kLSz55UXOLU
BWV881 https://www.youtube.com/watch?v=HSUmYPny3qI
BWV893 https://www.youtube.com/watch?v=IXfynSlvJh4