日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

熱意の塊

年末になると何故か耳にすることが多いベートーヴェン交響曲第九番。単に「ダイク」と呼ばれる。最終楽章の中のほんの一部に過ぎない合唱「歓喜の歌」のみが街に流れ電波に乗るが、第1楽章から緩徐楽章もすべてを通して綿密。非の打ち所がない。第一楽章から最後までじっくり聞くことであのパートの意味がある。良いとこどりのつまみ食いはもったいない。

季節と紐づけされた流行りものの位置づけなのだろうか、新年を迎えると街から消えるのも寂しい。かく言う自分もさほど聞くわけでもない。なにせ70分を超える演奏時間。通して感情移入するとやや疲れる。アドレナリンが過剰に出るのだろう。

代わりではないが例年1月から春に向けてモーツァルトを聞く頻度が増える。新しい年、春を待つ季節。何やらウキウキするからだろうか。明るいモーツァルトの音楽はそんな喜びの手助けになるように思える。どっしりくる交響曲を聞くことが多い。41番ジュピターの堅牢に輝くフーガはまこと新年を迎える気分としてふさわしいし、38番「プラハ」は対位法が際立ち広がりと豊かさを、39番は踊る気持ちを自分にくれる。軽快な34番、壮麗な35番「ハフナー」、豊かな36番「リンツ」も忘れてはいけない。今年は久しぶりに聴いた31番「パリ」の低音旋律に新しい美しさを感じ、何度も聴いた。

バッハの作り上げた音楽の基本ともいえるグラマーも息づく。明るいだけではない。その根底に常に透明な悲しみがある。明るさと哀しさが同居した彼の音楽はいつも自分に新しい気づきをくれる。

交響曲、協奏曲、室内楽、器楽曲、オペラ、合唱曲…。様々なジャンルに数え切れぬ作品がある。とてもその全てには手が出ない。彼はなぜこんなに多くの作品を作ったのか。能力は天与と努力だろう。しかし熱意は自発のもの。その熱意の源を知りたいと思う。

バッハも多作だが、教会付きのオルガニストと音楽長でもあった彼のモチベーションは「神への祈り」と「音楽理論の構築・フーガの追求」にあったのではないか、と素人なりに勝手な想像はできる。多くの教会カンタータを書き、辞典のような「平均律」や「フーガの技法」を大成し、キリストの受難を描いた最高傑作と言われる「マタイ受難曲」を残した。

モーツアルトは宮廷付きの職業音楽家でもあった。金銭だろうか? 軽いサロン的な音楽も、通俗的なオペラも書いた。世俗的なものが彼の動機ならば音楽はもっと不透明であったはずだがどうだろう。彼の白鳥の歌は未完に終わった「レクイエム」だ。透明な悲しみの極みといえる。

モーツァルトはやはり何かを表現したくて仕方が無かったのだろう。もっとその音楽に向き合わないと熱意の源は自分には想像もできない。惜しむらくは天は二物を与えず。35歳の若さで世を去った。その中で情熱の限りで曲を残した。熱意の塊は短く、太く輝いたともいえまいか。

壮麗なモーツァルト交響曲第41番「ジュピター」を聞いて、「嗚呼新年を迎えた。今年こそこれまでにまして良い年であるように」と呟いて迎えた新年。それもあっという間に月の下り坂を迎えた。半月過ごして、何の成果も出ていない。睦月は終わり如月へ、弥生へ。そんな中、自分は何かを残しているのだろうか。このまま翌年の元旦に再び「ジュピター」を聞くときに、何か満ちたる気持ちが自分の胸に去来するのか。

自分のこれから…。何に焦るでもないしその必要もないのだが、うかうか過ごすのもぼんやり日が経つのももったいない。そんな思いがある。大した事でもないがおぼろげながら何をやりたいかは浮かんでいる。取るに足らない「やりがい」といえるかもしれない。それをゆっくり形にしたら次の事を探す。体は無理が効かなくなった。何をやるにもペースも限られる。焦りはストレスを生む。

何事も今の自分・体と正直に向き合い話してみる。ゆっくりと対話するしかない。しかし自分なりの小さな「熱意の塊」は大切にしたい。そんなことを、夭折の天才が残した数多の作品群を聞きながら想う。


動画サイトより:モーツァルト交響曲41番「ジュピター」。カール・ベームウィーンフィルの残した素晴らしい演奏が残っていた。敬愛するベーム翁も素晴らしい録音を世に残してくれた。デジタルアーカイブに感謝。
https://www.youtube.com/watch?v=863BQEFb9kY

意図しているわけではないが・・・モーツァルトのシンフォニーは愛するカール・ベームの録音が多い。ウィーン・フィルと、またベルリン・フィルと組んで素敵な録音を残してくれた。お陰様で、自分との対話をすることができる。ありがとうございます。