日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

離れてみるのも悪くない

鉄道旅。時間を潰すのなら車窓が最大の友になるだろう。風景に通暁した路線ならいざ知らず初めてやたまにしか乗らぬ路線ならば物珍しさもある。更にボックスシートの中距離列車で窓際に座れたら旅の楽しさは確約されたようなものだ。次に手を出すのはスマホになる。それがない時代はウォークマンでお気に入りの音楽を聞いていた。そんなカセットテープはとうに消えたがその後手のひらに乗る小さなMP3プレイヤーがその地位に変わり更にスマホに代替わりした。

スマホを手に車窓を流れ行く山々を見ている最初の一音で体に電気が走った。固くてきらびやかな強烈な打鍵だった。ああ、こんなに素敵だったのか。僕はヘッドフォンから流れ来る構築美に酔った。というよりも綾織のように絡まる対位旋律に自分が編み込まれたというべきだったかもしれない。緩急つけながら淡々とそして確実に編み込むように続く音は何かを思い出させた。それは母に頼まれて子供の頃に手伝った毛糸ほぐしだった。僕は両手の肘を立てそこに母が毛糸をほぐして巻いていく。手元の塊が消えると僕の両手には毛糸の束が出来るのだった。それは簡素でいて丁寧だった。

アレッサンドロ・マルチェロオーボエ協奏曲をバッハが鍵盤向けに仕立てた作品だった。演奏はグレン・グールド。硬質で明晰なタッチが旋律を鮮やかに際立たせていて音楽はさながら大伽藍のように思えた。しかし豪華ではなく簡素だった。

痺れてしまった。とても知的な演奏に思えた。五十歳で夭折したカナダの産んだこのピアニストにはいつも奇人や天才といった修飾語がつく。自己のベストなコンディション発揮のために様々なルーティンがあり彼はそれを崩そうとしなかったと言われる。名プレイヤーなど得てしてそんなものだと思うが振る舞いには奇行に近いものがあったと言われる。彼は人々の好奇心とは別にバッハの世界に新しい風を吹き込んだと言わている。

バッハの主要な鍵盤曲は揃えることのできる限りをグールドの演奏で聞いてきた。彼の手によって古い舞曲は現代風なものになり軽快なリズムの上に透明な音が積み重なっていた。それを聞き続けること三十年。試しに触れた他のピアニストの演奏はとても新鮮だった。グールドはテンポや装飾音に独自のアーティキュレーションを加えたという。その意味で楽譜に忠実なのは彼らのほうかもしれなかったが、彼の演奏が頭の中では標準化されているので譜面の読めない自分にはどちらが本流で亜流なのか分からなかった。

長く続けた蜜月はいつしか終わり幾多のプレイヤーの演奏に触れた。それぞれに解釈があり見事な世界観だった。グルダリヒテル、シフ、ニコラーエワ、エッシェンバッハウェーバージンゲそしてアルゲリッチ。どれも素晴らしかった。グールドがデビュー盤と白鳥の歌として二回録音しいずれも名盤とされるゴルドベルク変奏曲も後に聞いたブルーノ・カニーノが自分には一番琴線に触れる。そんな聴き方でバッハを楽しんでいた。

スマホのランダム再生のお陰でいきなりグールドの勁い打鍵に触れ、我に返ったわけだった。彼の演奏の素晴らしさはしばらく離れてみるとよく分かるように思えた。

何事もそうなのだと思う。どうも飲み心地の悪いコップなら変えてみたらどうだろう。手に馴染まない楽器なら違うものを借りたらどうだろう。口喧嘩の耐えないカップルなら、、、少し冷却期間をおくのも、、ありかもしれない。

そしてまた使ってみる。会ってみる。離れてみると分かるだろう。そこには新しい発見があり幸せのウィン・ウィンが作れまいか。ろくに家族に相手にされないおじさんの戯言かもしれぬが、たしかにバッハはそうだった。これで再び、今度はより多くのプレイヤーの演奏を聞くことが出来るだろうし新しい発見にも出会える。それはとても大きな愉しみだ。

グレン・グールド。彼を論じた書籍に触れ彼が残しているであろうバッハの鍵盤曲はほぼすべて集めていると思う。ずっと聞き馴れた音だが少しの冷却期間を置いてから聞くと更に新鮮だった。離れてから再会する。何かがある。それは人生全般に言えるように思う。

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