日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

季節のご挨拶

お中元もお歳暮もずっと縁が無かった。自分の会社員時代には上司に季節のご挨拶を送るという習慣は既になくなっていた。もう他界した父は現役時代は百貨店に赴きこれぞと思う上司に送っていた。また父も又そんな風に思われていたのか当時の家にはそれらが多く届き、父母揃って贈答品買取店に持って行った。子供心にもったいないなと思っていた。当時は贈答品は季節の挨拶以外にサラリーマンとして首尾よく生きるための手段だったのかもしれない。

自分はそんな事には関心が無く、なによりも人様に金品等価物を差し上げるという事がピンとこなかったのだろう。ましてや今の社会ではコンプライアンスが徹底され権謀術数などありえない。しかし娘たちが結婚すると話が変わった。相手様のご実家がある。妻と話して、まずは相手の家の出方を見ようという事になった。十一月に結婚した長女の嫁ぎ先からはさっそくお歳暮が届いた。ああ、とうとう始めったな、と思った。デパートに行きお歳暮返しをお送りした。

一度そんな関係が成立するとそれは物理的に送れなくなるまではずっと続く。しかし、何度かのやり取りの後、気づいた。滅多にお目にかかれない相手の顔が浮かぶ。昨年は病の治療をされていたと聞いたが今はどうなのだろうか?病未だ癒えずの中に季節の挨拶に気を使っているのだろうか?すこしばかりそれは、心が温まるような気がするではないか。暑いさなかと慌ただしい師走にそれは二度届く。その奥にあるのが何らかの計算ではなく、そう、大切な方への思いがあるのならがとても素敵な話だった。

次女の結婚後には先手を打った。入籍は三月だった。お中元を贈った。先方様は自分達より若いご両親だった。それを受け取りどう思われたのだろう。ああ、面倒くさいと思われたかもしれないし、やはり来たかと思ったかもしれない。そこは気を使うべきだったろうか?しかし一方の家にはご挨拶を送り他方には送らないという事は出来ない。そんな迷いも今になれば懐かしい。もう、ご両家の顔が目に浮かぶ。受け取って食べていただければ、嬉しい。それが義務や何らかの目的があるのならつまらないものだが、心の中から送りたいと思うなら良い事だろう。あと何回そんな季節の挨拶が出来るかも分からない。もう、そんな年齢だった。

今年も届いた。きしめんだった。お中元は確か山本屋の味噌煮込みうどんだった。どちらもとても好きだ。ありがたく頂戴する。先方の家族構成を考え自分たちが送ったのはお菓子の詰め合わせだった。ことしも良い冬が過ごせそうに思う。

唯一気づいたのは、贈り物の包装氏だった。「薔薇のつつみ」なら高島屋。白地に赤の「華ひらく」なら三越。さて何だろう?いただいたものの包装紙を丁寧に剥がそうとしたらそれは破れずに伸びた。狐に包まれた思いだった。ひっぱったらパンと切れた。それは馴染みのがらが印刷されたビニールの包装氏だった。宅配用だろうか?小売業界が今はそんな包み紙を使っていると知った。SDGSの観点ならどうなのだろう?コストはこちらが安いのか。いや物流を通じて配達されるときの破損や軒先での雨濡れを考慮したのだろうか。いずれにせよ変わって来たなと感じた。送り手さんには何も関係ない話だった。

自分達は季節の挨拶を続ける。相手様の顔がそこに浮かぶ。包装紙が変わったようにまたなにか形が変わるかもしれない。しかし変わらぬ想いがあることが大切に思えた。さて、ありがたくきしめんを頂こう。鰹節がどんぶりの上で踊るに違いない。

これを季節の挨拶と捉え相手の顔を思い浮かべるなら、素敵な習慣だと思う。そう思えるようになったのはここ数年だった。