日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

二度目の道場

母方の祖父祖母は香川のとある港町で自転屋を営んでいた。夏休みになるとひと夏ずっと母は里帰りし自分もそこで暮らしていた。古い商店街に面した店の二階で寝泊まりしていた。朝になると通りを一団が掛け声を上げながら通り過ぎる。さながらそれは軍隊の行進を思わせた。少し怖くなり祖母に尋ねると「あれは少林寺拳法の人たちでな、山の道場に向かっていくんや」と答えた。祖母の家の数軒隣の小さな道場から公園のある山中の大きな道場までか。確かに瀬戸内海を望む高台の公園への道にはそれらしい建物があった。そこでは厳しい練習が行われていたのだろう。あの掛け声はそれに向けての鼓舞だったのか、と、今は思う。

道場というところに足を踏み入れたことは一度もない。猛者どもの鍛錬の場であり自分には縁が無いと思っている。しかしあった。一度だけ。狭い空間だった。ピリピリとした緊張感が支配していた。誰も怒号を発するわけでもないのにそこは厳しかった。「不文律」と書かれた重い砂袋が上から載ってくる、そんな気がした。・・・離れた場所に居た二人がそれぞれ食べ終えて店外に出た。すると次に二名入れる。その後ろにはまだ行列だ。速やかに空いている席へと、目と短い言葉で誘導された。並んで座ることは不可能だった。カウンターの向こうは湯気を立てる大鍋と寸胴鍋。奥様が注文を受けて旦那様はキビキビ動く。カウンタの外も誰も一言も発しない。漂う緊張の中ただ「すする」音がするだけだった。なんとも肩が凝ったのだった。

所要で杉並区は荻窪に出かけた。右手にかけての青梅街道沿いには昔のバラックの面影を残す一角がありあまり変わっていなかった。その中にその道場はあったのだが今はなかった。移転したのかな?と妻と少しウロウロした。違う場所に同じ屋号があった。匂いが記憶を呼び覚ました。場所は違えど同じ店だろうと。

暖簾向こうのご主人は二名と知ると飛び飛びに開いている席を見て、少し待って下さいね、と丁寧だった。肩透かしを食らった。お陰様で並んで座れた。注文を女性に告げた時、聞いてみた。するとこの店自体は昔からある事、一方で青梅街道沿いのあの店はだいぶ前に閉じたという事だった。そこは彼女の祖父の妹夫妻がやっていたという事だった。この店は遠縁にあたるという。皿洗いの手が空いたようなので話しかけた。その遠縁さんの店は道場のように厳しい雰囲気でしたよ、と。すると彼女は笑いながら、誰もしゃべらないのですね、と答えたのだった。

嬉しい事と言えば、玉子入りラーメンだった。それは別鍋で茹でられているのだがそのスープが仕上げのトッピングの際に玉杓子からともに投入される。挽肉の混じったその煮汁からは中国大陸の匂いがする。八角だろうか。そんなエキスが飾り気のない醤油スープにアクセントをつける事だった。前のお店でも玉杓子でそうやっていた、その風景がまざまざと浮かんだ。常連さんは一言「タマゴ」とだけ告げるのだった。もちろん固ゆでの味玉子だ。その点も嬉しかった。

漫画家で大の食べ物好きとして知られる東海林さだお氏。ユーモラスな彼の食のエッセイは大好きでいくつか持っている。そこからこの店についての記述を引用させて頂こう。余りに可笑しくて、僕はそれを読んでいた通勤電車の中で腹を抱えて笑ってしまった。すると隣席の男性も、その本は面白いね、と言うのだった。

ー「丸福は名店であるが難点は行列にある。そして店内の緊張。緊張失くしてこの店のラーメンを味わうことは不可能である。」
ー「一切の私語が聞えない。もし誰かが私語を発すればシーッという叱責が飛んできそうな、名曲喫茶の様だ」
ー「店内寂として声無く、湯のたぎる音とラーメンをすする音だけが聞える。まさに道場と言える」

同じ屋号でも今回は違っていた。不愛想ではない。丁寧で笑顔もあった。この道一筋、一杯にかける想い。それが彼を律しているだけの話に思えた。二度目の道場訪問は、もう閉場されていたので叶わなかったが、血はつながっていた。変わらぬ味が「近づきやすく」残っていたことが嬉しかった。長く続いてほしい店だと思う。

中華そば玉子入り。単に「タマゴ」と皆さんは呼んでいるようだった。場所は変わり店の雰囲気も違うが嬉しい事に味は通じていた。荻窪・丸福

レトロな一角に懐かしい味。そして東海林さだお氏の食のエッセイはユーモアにあふれいつでも楽しい。

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