日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

餃子の憂鬱

この文のタイトルに憂鬱という言葉を選んだ。美味しいものを食べるのに憂鬱などおよそ相応しくない単語なのに。

人類滅亡の日が明日とする。すると今夜が最後の食事。そこで何を食べるのだろう。くだらないが本当にそうなら頭を悩ます。ラーメンを別格とすると、自分はトンカツ、ハンバーグ、餃子を選ぶ。トンカツはロースで。ヒレカツは上品すぎる。ハンバーグはつなぎの入らぬもので目玉焼きを添えて欲しい。餃子はそれが日本式と知りながらもやはり焼餃子といきたい。

どれも子供が好きなものばかりで還暦回っても味覚は子供のままだった。共通するのは全てが脂っぽい事。その結果が現在の自分の体型のなのだから、我が年齢も考えて嗜好を変える時だろう。

今夜のメニューは何にする?会話の減ったシルバー夫婦にはそれが一日の中での会話らしい会話となる。結果餃子となった。今夜は遅くまで仕事だった。それもあってか餡づくりと包みはやるよと妻の手が挙がった。肉とニラ、えのき茸あたりが微塵で入っている、そんな彼女の作る餃子が僕は好きだった。たまには二人で並んで作るのだが妻の皮包みはなかなか巧い。自分はやや具を多く入れたくなるのでいつも皮の余白が減る。小銭で膨らんだ「がま口」を思わせた。餃子を作ると大学の頃のアパート隣室の男を思い出す。彼は肉の信奉者で「皮を四枚繋いでそこに肉だけの具を山盛りに入れたい。ジャンボ餃子だ!」といつも鼻息を荒くしていた。奴は卒業し故郷の東北の街に帰ったが、果たしてかの地の彼の家庭でそんな南部鉄器のような餃子が食卓に上がっているのかは分からない。

帰宅すると生餃子が出来ていた。さてそこからが憂鬱になってくる。最大の点は上手く焼けないことだった。フライパンが新しいうちは上手くこんがりと申し分なく焼けたのだが、コーティングが剥がれてからは上手く焼けないのだった。焼き上がりはいつも皮がこびりついてしまい底が剥がれる。しかしフライパンのせいにはしたくない。中華料理店の分厚い餃子焼き装置を思い浮かべる。黒い鉄板。あれにコーティングがされているとは思えない。なにか鍵があると思えた。

ここで東海林さだお氏の食のエッセイ「ショージ君の料理大好き」に登場願う。何でも自分で作ろうとする、その努力奮闘ぶりが彼の楽しい漫画と共に自分を幸せをくれる。さてそこに「餃子の巻」がある。中国では蒸餃子と水餃子が主流で焼餃子は日式餃子と呼ばれ日本料理店でしか食べられない。しかしやはり焼餃子。書にはこうある。「フライパンに油大匙二。餃子を並べ初めは強火で焦げ目つけ。次に熱湯を餃子の1/3の高さまで入れて蓋、水が飛ぶまで蒸し焼き」。三つ子の魂百まで ではないが、三十年以上前にこの本を手にしてから自分はそれをいつも忠実になぞっていた。強いて言えば事前にフライパンを十分に加熱する事、仕上げにもう一度強火で焦げ目をつけ直す。そんな創意工夫を加えていた。しかしそれはフライパンのコーティングが剥がれると厄介だった。

油を大目にすればよいのか・・。蓋をして出来た餃子は数個はこびりついたが何とかうまく剥がれた。しかし油っぽすぎた。タレはいつものラー油を控えてコショー酢、豆板醤で食べた。しかしいつもうまく焼けるのかは憂鬱だった。結局鍵はわからない。今日はそこそこ焼けたが多めの油で不健康という新たな憂鬱が加わった。

もう一つある。それはビールが飲みたくなることだった。ビールなしで餃子を食べるとは醤油なしで刺身を食べるのと同じに思える。年末に体調を崩しなぜか晩酌を必ずしも必要としなくなった。みるみる懸念の悪玉コレステロールは低下した。しめしめとおもったが、餃子はそれを反故にする。これも憂鬱だった。しかし缶をプッシュと開けると憂鬱は極楽に変わるのだった。

食べるべきか控えるべきか、悩ましく憂鬱な料理だ。

幾つの憂鬱だろうか?上手く焼けるのか?健康に悪そうだ、ビールが進んでしまう・・なるほど、三つだった。

東海林さだおの食のエッセイは新潮文庫には二冊、朝日新聞文庫では多くの丸かじりシリーズ。今は幾つかを手放しこの三冊のみ。どれも大笑いしながら読んでいる。いつか電車の中で読んでいたら隣席のオジサンに「その本面白いね」と言われた。彼もきっと買った事だろう。

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