日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

意味のないノート

♪オタマジャクシは蛙の子。そんな唱歌があった。もっともそのメロディにはさまざな歌詞がついていたような記憶があるが。実際にはアメリカの民謡でそこに日本人が歌詞をつけだだけのようだ。多くのバージョンがあるのもうなずける。

オタマジャクシと言うと音楽の授業を思い出す方もいるだろう。音符だ。音楽の授業は大好きだった。一番好きだったのは縦笛と合唱だった。輪唱などは楽しかったがあれは今思えばクラシック音楽の手法であるカノンそのものだった。高学年になるとコンクールソングを歌う。「気球に乗って何処までも」「翼をください」あたりだろう。下手なのに楽しかった。もっと授業を増やしてほしいと思っていた。聞くだけでも有名なシューベルトの歌曲「魔王」など、わくわくした。

しかし音楽の授業には多少でも理論めいた話があったのだろうか。楽譜が出てくるのだった。これが全く意味不明だった。オタマジャクシが並ぶだけだった。自分の姉は母親の方針か小学生からピアノを学んでいた。自分も学びたかったが言いそびれた。そこにはやはり性差別があったのか。ピアノは女子のたしなみ、と思っていたとしたら残念の極みだった。お陰で姉は楽譜が読めるのだった。彼女はモーツァルトピアノソナタ11番KV331第三楽章辺りまでは練習していた。誰もが知る「トルコ行進曲」だった。何度もつまりながらも弾き進める姉を見て憧れた。譜面台の音符が躍っているように思えた。

クラシック音楽は自分に取り一番大切な音楽であるが、それが全てではない。色気づく高校生の頃からロックに、そしてその後そのルーツであるブラックミュージックに行きついた。気づけば自分も一応楽器奏者になっていた。高校終わりにベースギターを始めたのはコードを押さえる必要もなく弦も少ないので簡単に思えたからだった。しかしすぐにそれはとても大きな間違いだったと知るが幸いにベースギターはずっと傍にいてくれている。

姉のように楽譜を見て何かがわかるわけでもない。未だに五線譜に書かれた音符でメロディが頭に浮かぶという事が信じられない。万年初心者の自分は演奏する曲を何度も聴いて音を拾い、何よりも大切なリズムを覚えるだけだ。ただ忘れないようにノートに書く。ド・レ・ミ、一応ノートの上にはC・D・Eになる。これをノートに記して、見るだけだった。しかしそれすらも面倒だった。曲の展開パターンを覚えてしまえばそれを繰り返して、必要に応じて少しニュアンスを変えるだけ。それでこれまでを乗り切っていた。アドリブは勘弁してもらっていた。こんな「告白」をとてもバンドの仲間に見せるわけにはいかない。たちどころにお役御免になるだろう。

次回、似たような展開が延々と続く課題曲が来た。3コードのシャッフル物だった。いやなことに時々「キメ」が入るのだった。きちんと曲の構成を理解しようとノートに書こうと思った。できれば五線譜で。しかしそんな五線譜ノートがなかなか手に入らなかった。老舗の文具店でようやく手に入れた。さて、これに覚えた曲の展開を果たして自分は書き落とせるのだろうか?自分だけが見て分かればよいのだが、何とも意味のないノートになりそうな気がしてならない。オタマジャクシは最初から諦めているので決して蛙は出てこない。これで蛙のようにアンサンブルは跳ねてくれるだろうか。まぁ、やってみよう。まずは五線譜に小節の線を入れるところから・・・。

次回のスタジオでの音あわせが怖くて仕方ないのだった。

五線譜ノート自体が手に入らなかった。辛うじて一冊残っていたので買わせていただいた。使えるかも分からないのに。

久々の原点回帰で四弦へ。さてどうなることか・・。

 

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