日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

満ち潮

川辺に座り込んでしばらく波を見ていた。護岸工事でセメントの堤防ばかりの都会の川にしては貝殻の堆積した天然の浜があるのも不思議だった。風がある日でもないのに水面に波が立っていた。川は流れるものでゆっくりたゆたうものでもないかもしれない。いやそれは上流や中流の話だろう。ここ、河口付近でのこの波はなぜか上流に向いているのだった。

数日前の楽しかった夕べを思い出していた。六人で卓を囲んでいた。気楽な焼き鳥屋だった。枝豆と焼き鳥が運ばれてきて中生やハイボール、ホッピーなどの空きジョッキや空きコップが新しいものに変わっていくたびに六人の笑い声も大きくなった。傍から見ればただの酔っぱらい集団だっただろう。

六人とは家族だった。自分たち夫婦、それに二人の娘たち夫婦。コロナの時期での入籍で顔合わせや挙式なども最低限に済ませていた。二組の娘夫妻が同時に顔を合わせるのは初めてだった。なかなかそんな機会が無かったが敢えて時間を作ったのだった。娘の夫を義理の息子と呼ぶことはピンとこない。自分は偉そうにそんな事を言える柄でもない。二人の婿殿はそれぞれ性格も違うが互いの妻を大切にしてくれている点で共通していた。姉妹はそれぞれの夫を気遣いながらの酒席だった。やがて垣根はいつか取り外れ、会話の綾は大きく絡み合う。初めは上手く会話が進むように場を見ながら話題を挙げていた自分も、ある時点で役割不要を悟った。もう社会の中核になっている長女夫妻も、はや新入社員とは呼べなくなった次女夫妻も楽しそうだった。それぞれの旦那がとても嬉しそうに弾けているのがなによりだった。楽しい会合は終わり、また次回やりましょう、とそれぞれが言ってくれたことが嬉しかった。三つの家族がトライアングルに繋がれば言うことなしだった。

「これで一安心だね。誰もが楽しそうでよかった。良い結婚をしたんだね。」 そんな話を妻としていた。もとは他人でもある。縁あって夫婦になりさまざまな山谷もありそこには感情のぶつかり合いもある。いつしかそれも去り、何事もなく日々が進むようになる。そしてまた何か来る。それも去る。教会で結婚式を挙げたなら神父さんは言うであろう。「病める時も健やかなる時も愛を誓いますか?」。教会で挙式せずともだれもがこの問いを自らにぶつけ「はい」と答えただろう。

目の前の川は引き潮もあれば満ち潮もある。二人の娘たちは結婚で家を出たが、今度は伴侶を連れて戻ってきた。こうして家族も波のように引いて外洋で揉まれ、いつかまた戻ってくる。やがて戻ってくる家族は増えるもしれない。そういえば35年近く前、自分たちはただの個人であり家族ではなかった。面白いものだ、と思う。

目の前の波は銀色の羽にも見えるのだった。幾百幾千もの羽が羽ばたいているのだった。風もないのに、不思議だった。それは満ち潮だった。我が家にも数日前に戻ってきた潮の流れだった。

貝殻の散る浜で腰を下ろし川面を見ていた。波が多いのは風のせいではなかった。満ち潮だったと気づいた。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村