日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

閉じてしまったクリニック

住む街をゆっくりと自転車で走っていたら気づいた。あるクリニックが先々月末で閉店していた。「諸般の理由で閉院致します」、扉にはその旨の張り紙があり、看板も外されていた。

外れた看板の裏手だけ建物の色は周囲と異なっていた。それが妙に寂しく見え、また何故か懐かしい思いもした。

そこは整形外科・外科の看板を掲げていた。地元ではなかなか腕が良いと評判の良い病院だった。娘が生まれて数年だった。その頃どうも娘の足の指の形が気になるな、そう妻は口にしていた。母親というものは何かと子供の発育は気になるものだろう。僕はあまり気にしていなかったが妻は医者に見せたいという。娘はやんちゃに幼稚園を楽しんでいた。

シャウカステンに映したレントゲン画像を示しながらを医師は足指の骨を少しばかり修正した方が良いですね、と言われた。放置しておくと多少形が変わってしまいます、ということだった。妻は涙を浮かべ、妊娠中に風邪をひいて飲んだ鎮痛解熱剤のせいよ、と言うのだった。

そんな訳はないだろう、成長は極めて真っ当だし、よくあることだよ、としか言いようもなかった。しかし画像を見ていると、早めに手術をしたほうが良いだろう、と僕も思うのだった。

結局手術で娘は数日間入院した。手術室の外で、待った。よくあるテレビドラマのようだと思った。ガリガリと骨を削る音がした。麻酔をして娘は寝ていた。まだ小学生になる前だった。

お見舞いにいくと病院の下で妻は言うのだった。娘が痛いと泣いている、声が聞こえると。そうは聞こえなかった。母親のみが聞こえるのだと思った。

骨を削った。縫合も綺麗だった。聞けば手術は大学病院から派遣されていた腕の良い外科医によるもの。彼の診察はそれが最後で、その後は大学病院に戻ったとの話だった。

院長はやがて引退されたようで病院は建て替えられ小さなクリニックに生まれ変わった。外来専門になったという。病院名は変わらなかったので息子さんにでも代を譲ったのかと思った。

その後自分たちはそのクリニックに行くことはなかった。必要あれば自分は近所にできた新しい整形外科に通ったし、娘はあまりに順調に育った。

本人はそんな手術ももう覚えていないのだろう、あれから話題になったこともない。足の形は何の異常もなく大学生の頃は登山靴を履いて自分と山登りにも出かけていた。数年前には自分たちの戸籍から外れて、数歳年上の優しそうな男性と新たな家庭を築いていた。

妻はあれからクリニックの路地を通ると何度か当時の話を口にした。気にしているのか、とこちらが気を使った。生活を送る上で特に必要なルートでもなく、いつのまにかその路地を避けた。

あの病院が閉じてしまったことを妻にどう伝えようか、と思っている。心配ご無用で意外とケロリとかわすと思う。すると気にしていたのは、実は僕だったのかもしれない。

女性とは強いものでいつも前を見ている。でなければ出産には耐えられないだろう。激痛と言われるその痛みには男なら卒倒して倒れ込むのではないか。大体男は強そうでいて、上っ面だけですぐにクヨクヨする生き物だ。だからこそ不要な繊細さがあるのかもしれない。

先日もアウトドアスポーツを楽しむ娘夫妻の写真が送られてきた。ゴールデンウイークを満喫しているようだった。

閉じてしまったクリニックを前にして、お世話になった日々と複雑な思いで過ごした頃を思い出した。全ては良きに過ぎていった。全く素晴らしいな。感謝の思いを胸にして路地を後にした。

登山靴を履いてともに歩いた。何事もなく日々は過ぎて行った。閉じてしまったクリニックはもう思い出す必要もないのだろう。



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