日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

新しい日々

高原の地に引っ越すと病院もまた変わることになる。自分の診療科は血液の病を診療する科であり「血液内科」と呼ばれている。一昔前ならば内科といえば総合的なもの以外は呼吸器科、循環器科、消化器科程度、加え神経内科あたりしか細分化されていなかったと記憶する。それが今は腫瘍内科、腎臓内科、糖尿病内科、そして、血液内科と細かくなった。ジェネラシストからスペシャリスト化が進んでいるのだろう。

新しい病院に通う必要があった。何処にしようかと迷った。血液内科の看板を掲げている病院は多くない。大学病院、県立病院、そして赤十字病院あたりだろう。いずれも急性期病院であり症状の安定した患者は受け入れない。自分が入院していた川崎市の総合病院も一通りの抗がん剤放射線治療が終わるとその病院からの派遣医がいる街のクリニックへの転院となった。

クリニックの医師も信頼がおけたが時折画像撮影のために総合病院に訪れると自分は心から安らぎを覚えた。ここでの日々、僕は何を視ていたのだろう。僕のベッドの隣はしばし入れ替わった。退院した方もいればそこを永遠の伏床とした方もいた。生と死の狭間が毎日押し寄せていた。僕はその縁を危なく綱渡りしていた。

病院を好きだと言うとおかしな話かもしれない。しかし自分は白一色の壁とガラス瓶からコポコポと湧き出る蒸気に心からの安堵を感じるのだった。喘息の発作の度にネブライザーの管を口していた。テオフィリン製剤なのだろうか、その蒸気を吸い込むと肺が暖かくなり空気が抹消迄通じるのが分かった。血が指先まで行き届く感覚を子供のころから知っていた。そう、白い壁は昔から自分の友達だった。

どの病院にせよ急性期病院だった。大学病院には実はあまり良い印象を持っていない。そこは教授を頂点とした堅牢なヒエラルキーがあり封建的なのではないかとずっと思っていた。教授は絶対の権力を持ち頂点に立つ。その代替わりには腕は立つが野心家の医師達が権謀術数を使い教授戦に挑む。末端の医師は票集めの兵士のようだ。それは山崎豊子の小説「白い巨塔」の読みすぎかもしれない。実際故・田宮二郎が演ずるドラマ化された同作の主人公・財前五郎はさほどに小学生の自分に強い印象を与えた。また、遠藤周作が書いた「海と毒薬」でも米軍捕虜への死を前提とした生体実験を行ったのは大学病院の教授であり、医師たちは有無を言わずに従うだけだった。

自分が化学治療で入院した病院は血液内科の医師全員に加え他科の医師も交え個々の患者の対応方針についてカンファレンスを行い、医師やスタッフが暴走することを防ぐ仕組みあるのです、そんな説明を主治医はしてくれた。それは山崎豊子遠藤周作が書いた大学病院とは違う民主的な世界だった。

今の大学病院がどのような世界なのかは知らない。しかし目に見えぬそのような闇をいつも感じている。結局思い悩んで隣県の総合病院を選んだ。自宅から車で30分。海抜760メートルの高原の湖を望む病院だった。冬は凍結するというその湖は温泉地でもあり間欠泉が湧くのだった。ヘリポートもあり辺り一帯の急性期患者の受け入れ先だった。茶色い建物が頼もしい。ここなら入院しても眺めもよく気持ちが良かろう。そう思ったのも事実だった。馬鹿馬鹿しい、入院を前提に病院を選ぶとは本末転倒だった。

新しい医師はこれ迄の治療を見て、それではいったん現状での値を取りましょう、そうすれば今後また比較できますから、と言われた。先の総合病院の主治医と、出先のクリニックの医師と同じく、信頼がおけると思った。今度は彼を信じるのだった。脳のMRI、全身のPET。そんな検査の予定がたちどころに組まれた。

新しい病院は頼もしい。白い壁はいつも安堵をくれる。いつまでも厄介にはなりたくない。ガンは五年経過すると寛解と認識される。僕はそれを待っている。ストレスのない場所でゆっくり生きようと引っ越したのもそれが心と体に良いからだ、と思っている。

どう転ぶかなど何もわからない。登山で足を踏み落とす。サイクリングでの山道で転倒して側溝に頭から突っ込む。脳腫瘍摘出した脳が暴走しててんかんを起こし心臓発作に至る。不幸なシナリオは無数にある。

病院に西日が当たっていた。裏手の水路に沿った緑道にアヤメが陰影を伸ばしていた。朝一番から長い診療だった。傾いた日を浴びた茶色いコンクリートのビルがとても頼もしく見える。ここを選んだ。あとは新しい日々が待っているだけだ。