日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

老いと円熟

年齢を経ると様々な運動機能が衰えてくる。晩年の父は歩けなくなり最後は老人施設で人生を閉じた。ずっと寝ているか車いすだった。歩行機能は失いたくないが老化には抗えない。少しでも機能を長く維持するためには普段から鍛錬が必要なのだろう。鍛錬と書くと辛いイメージがある。歩行や階段昇降だろうか。いや、脳の鍛錬も必要だろう。

輝く技巧を持った音楽プレイヤーが居たとする。年老いたら彼らの技量は衰えているだろうか?

ロックの世界で天衣無縫な技巧と明るいキャラクターで新時代のギターヒーローとして人気者になったエドワード・ヴァン・ヘイレン。決して好みの音楽ではなかったが高校生の頃初めて聞いた時には驚いた。彼が世に広めたタッピング奏法など訳が分からない音色だった。そんな彼は数年前に惜しい事に逝去したが晩年のライブ映像を見る限り派手さは削れたが渋い演奏をしていた。自分のギターヒーローであるストーンズローリング・ストーンズ)のキース・リチャーズなど最近の映像でも60年前にデビューした頃から変わらぬスタイルでエッジの効いたギタープレイを見せている。エリック・クラプトンも同様だろう。

マルタ・アルゲリッチの録音を初めて聞いたのは1960年代に彼女がクラウディオ・アバドの指揮で録音したラヴェルのピアノ協奏曲だったか、いや、ショパンだったか。鮮烈だった。もっとも惹かれたのはシューマンのピアノ協奏曲だった。数年前に齢80歳を超えた彼女の生演奏に初めて接した。水戸室内管弦楽団とともにシューマンを演奏していた。情熱に満ち溢れ確実でシャープな切れ味で彼女の1970年代の録音と変わりない、いやむしろ迫力が増していたのには舌を巻いた。チャーミングだった長い黒髪は豊かな白髪になっていたが外見と技巧の無関連性を示していると思った。

マウリッツオ・ポリーニもまた鋼鉄のタッチで20世紀をリードしたピアニストの一人だろう。ショパンの24の練習曲を彼が録音したのはやはり1970年代だが、それまでに聞いていたルービンシュタインとも違う、溌溂さと鋭さに惹かれた。いかにも新時代の俊英だった。やはりアバドと組んだ彼のブラームスピアノ協奏曲2番は情熱的で好きな録音だが、先日最近のブラームスピアノ協奏曲1番の映像を見て、感じた。「年齢を経るとは、こういう事か」と。鋭いピアノと言うよりも柔らかさを感じさせる演奏だった。確実な技術に裏打ちされた上での表現の一つだと思う。人はそれをきっと「円熟」と呼ぶのだろう。

力の抜き方が素晴らしかった。アルゲリッチ同様に老いてもなおヴィルトゥオーゾだと思った。カーテンコールでは指揮者がソリストやオーケストラを讃えるものだが彼については彼が指揮者であるクリスティアンティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンを讃えていた。彼の指揮者とオーケストラに対する敬意をそこに感じた。

何度となく演奏してきた曲には様々な解釈が出来るのだろう。加えて技巧は衰えず、他者への敬意を忘れない。円熟とは側面的なものだけではなく人間性を示す言葉だと思った。冒頭に書いたロックギタリストたちもバンドメンバーへの敬意があるのだろう。一方で技巧を維持する、いや進化させ続ける事は如何にも大変だろう。基本的な運指を欠かさずやっているのか。無意識に技巧を維持しているのか。そのコツはわからない。

特段の技術を持っていない自分だが、老いに向けてなんらかの鍛錬は続けたいと思う。手足指先、なによりも頭の鍛錬。まだまだ老いてはならない。自然の摂理に抗う事は無為と知ってもやれることはやっていく。その先には自分なりの「円熟」が待っていよう。身近な事から小さく始めるのだろう。

70年代のマルタ・アルゲリッチ録音。これはチャイコフスキーと再カップリングしたもので自分が聴いていたのはオリジナルのショパンカップリングされたもの。しかしシューマンは同じ録音で、煌びやかで素晴らしい。ムスティラフ・ロストロポーヴィチ指揮ワシントンナショナル管弦楽団、1978年の録音。そしてジャンルは違えどエリック・クラプトンの1974年の録音「461 OCEAN BOULEVARD」では1960年代のクリーム時代を感じさせないレイドバックを聞かせてくれた。歳を重ねても進化があるという事を教えてくれる。

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