日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

小さくがんばる

病は気からと言う。昔は何とつまらないつこじつけだろうと思っていた。気持ち次第で病の状態が変わるはずなどないと思っていた。

しかし実際に病にかかると心の在りようが大きく体調に関係することを実感した。適応障害に罹患したときは金縛りにあったかのように体がベッドから起き上がれなかった。無理して出社してもPCを前にして体は動かず両手はいたずらにキーボードをまさぐり頭の中は渦を巻く。鼓動が高まり逃げたくなる。しかし動けない。心が体を支配する。前向きにはなれない病だった。

ガン病棟の日常でも感じた。心に強い支えがある人は現実をありのまま受け入れどこかに希望を持ち、強く苦しい治療に向き合い体力と気力が漲るのが傍目にわかった。はじめから自らの病のステージに幻滅した人にはそんな変化は訪れなかった。

いくつかの病と長く付き合っている友人が居る。それぞれの病は治療してどれも寛解になってはいるがいつ再び顔を出すか?と考えると暗い気持になるという。病との時間が長かったせいか友は何か透明な価値観を持っている。「オギャアとこの世に生まれてから誰もがゴールを目指して進み始めている。人によってそのゴールが近いのか遠いのかわからない。だから余り病のことで悩んでも仕方ないのよ」、と友は言う。それは病室の自分にはとても優しく励まされる言葉だった。友がそこまで言えるにはどれほどの時間が必要だったのだろう。

何をやるにせよ「無理せずに、小さくはじめれば良い」とはさるテレビ番組で脳科学者氏が話していた言葉で、病から戻ってきた自分に響いた。病前のような生活はあるのか?病は復活しないか?不安があった。ならば出来ることからやって成功体験を積み重ねていけばよいのだ。僕は今ではそれをいつも金科玉条が如く唱えている。

夏のさなか辛い都会を避けて友は自身の郷里に帰っている。青い空と豊かな緑の風景写真を友は送ってきた。都会の中で感じているであろう息苦しさがそこにはないように見受けた。アスファルトは照り返すものの空気は澄んで人は少ない。生まれた街で友の気持ちは軽くなり体も元気なようだった。空気、言葉、風景、人々。それらが全て友の心を包み込み体に力が漲ったのだろう。 …そんな友も生活があり都会に戻ってくる。電車の旅を気遣うと、うん今度は一人で帰ってみる。「小さく頑張るよ」、と連絡があった。

「小さくがんばる」か。心が軽くなり体も楽になっても、身を任すときもあればどこかで「えいっ」とアクセルを踏む必要もあるだろう。僕も毎日小さくアクセルを踏んでいる。いつ停止するかもしれない。小さく負荷のかからぬようにまずは始める。良い言葉だ。

今年は激しい暑さは文月迄だったように思う。葉月は旧盆過ぎれば長月に向けて風の向きが変わり虫の声を聴くだろう。そのうち台風も続々とやってくる。潮目も変わるだろう。日々無理ない範囲で「小さくがんばる」を重ねるならば、どこかで風に乗れるのだろうと思っている。

夏も終わり冬が去り春を迎える。小さく頑張っていれば美しい水芭蕉が咲くころきっと好いことがあるだろう。

 

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