日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

夏のウグイス

六十歳。子供の頃は大人の年齢など気にしなかった。ただ当時は六十歳といえばおじいちゃんおばあちゃん、「老人」という認識だった。「老」という漢字には何かポジティブな使われ方があるだろうか。広辞苑を広げた。音読みと訓読みでざあっと探してみた。「おい」は見開き2ページに渡って、「ろう」に至っては見開き4ページに及び様々な「老」のついた言葉が書かれていた。ほぼネガティブな言葉だった。よくぞここまで老化にまつわる言葉があるものだ、何か恨みでもあるのか、と僕は日本語学者に腹がたった。老練、老熟、少しは前向きかもしれないが、老獪に至ってはずるがしこさがある。勘弁してほしい。

一桁代は心臓の動くままに任せていた。
十代。前半と後半では大きく変わった。後半では自我について考えた。
二十代。悩める学生時代から社会への羽ばたき。恋愛をし家庭も持った。子供も生まれた。一桁代と十代とは明らかに異なる世界だった。
三十代。仕事に追われ子育ての手伝いもあった。多忙な中に自分を失いたくなく趣味に没頭した。
四十代。仕事が自分の生活の多くを縛った。転勤でヨーロッパに住み異文化の中の点となった。良い経験だった。
五十代。責任と自己の能力不足だろうか、板挟みでメンタルの病となった。早期退職した。再就職してすぐにガンになり、その道は途絶えた。子供たちはいつしか巣立っていき妻と二人だけになった。

ここまで振り返り書き記すと、それは300字に及ばない。これまでの生きざまは僅か数百字で表すことができるのだった。五十代で経験した病には意味があったのだろう。つまずいて自分を見つめ直す機会だったと捉えている。古い友人達と再会し、新しい世界で多くの知己を得たのは病の力だったと思っている。病床では明るい光が欲しかった。多くの懐かしい友の声に、顔に接し力を貰った。これ迄とは全く違う世界でパートで働いてみた。見知らぬ世界だった。そんな大切な友人と新しい社会と「つなげてくれた」事が病の役割なのよ、と妻は言うのだった。その通りだと思う。何かを得た。価値観の変化があった。

六十歳はさりげなくやってきた。午前零時に祝福の鐘が鳴るわけでもなかった。目の前の海がさあっと開くわけでもなかった。日々の風景の中の針の進みに過ぎなかった。

「老」という文字を使う言葉に良いものがあるとしたら。「老いてはますます壮なるべし」とあった。歳を経ても衰えずに血気盛んであれ、という意味だった。そうありたい。「老い鶯(ウグイス)」という言葉も目を引いた。これは歳をとった鶯の意味ではなく、夏の季語だった。春先に鳴くのではなく少し遅れて夏にかけて鳴くウグイスだからそう呼ばれたのだろう。

自分は夏の生まれだ。母親が自分を産んだ頃は夏は今ほどまで暑くはなかっただろう。蚊取り線香と団扇でしのげたのだろうか。しかしお産とは苦しいものだろう。全く凄い話だと思う。脂汗と夏の汗の中、世に出してもらい、オギャァと泣いてからわずか300字で表せるにせよここまで日々を重ねてきたことは。

夏の森。そこで鶯が鳴いたなら少し間抜けな感じもするが、いかにも呑気で微笑ましく思える。もうあくせく生きる必要もないのだった。今の自分を受け入れて大切な家族と生きるのだった。娘から誕生日のお祝いに、と赤いシャツを着た熊がサイクリングしているイラストが描かれた可愛いTシャツを頂いた。赤に込められた還暦の想いを彼女は知っているのだろう。

赤は厄除け・魔除け。この先何が起きるかも分からない。ならば赤い気持を心にして、ただのんびりと「老い鶯」のように間抜けに毎夏鳴いて、呑気に過ごしていくのだろう。

赤いシャツを着た熊がひどくのんびりとサイクリングをしている。そうありたいと思う。

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