日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

悪あがき

草刈り機にも色々な種類がある。長さ1.8メートル程度の棒の先端に回転刃がつき後端にエンジンなりモーターユニットがついているもの。肩から懸けて腰辺りに当てて回すように刈る。交流電源式や充電式もあるがやはりトルクの強いエンジン式が多い。しかしなかなか重いので腰に来る。そこに振動が加わるのだから見た目よりも疲れる。自分など20分も動かすともう沢山になってくるのだが、一方で片っ端から草を刈払いたいという凶暴な思いもわいてくるからアクセルレバーを引いてしまう。わずか23.6ccのツーストロークエンジンはビンビン回り懐かしい原付スクーターの匂いに包まれる。たちまちにして眼の前の敵をなぎ倒すので、まぁ多少のカタルシスもある。しかしそこは懸命にピストン運動しているシリンダーの横に我が身があるわけで、セーブしないと大変だ。満足度と疲れ具合は正比例する。

春から初夏にかけては植物は大喜びだ。雪も消えた。長い冬も終わった。ようやく羽を伸ばせる。虫も飛んでくる。受粉でもしてほしい。植物としての本能が萌芽する季節だ。しかし自由奔放にしていると、目についた人間によって、ぶん回される鋸刃によってカットされてしまう。生きるのも楽ではないなーとでも思っているかもしれない。

久しぶりに訪れた地の草を刈った。夏草ボウボウでなかなかやりがいがあったが自分の体が先に悲鳴を上げた。腰が痛く作業を続けるのが難しかった。それ以上やったら疲労で誤って刃で怪我でもしそうだった。草木の生命力は強く、手入れをしないとすぐに伸びてくる。しかし冬になると枯れてしまう。雪でも振ればすべては隠れる。するとなぜ草刈りをするのだろうか。からないとぼうぼうになる。そのわずか数か月が耐えられないのだろうか。確かに何もしなければ密集した草藪の残滓は冬にでも残り、少しづつ堆積し増殖していくのかもしれない。 腰の負担にならないハンディソーで好き放題に伸びた木の枝をカットした。しかしこれとていつかは元に戻ってしまう。なにをやっても草刈りの意味は無くなってしまう。

自然の営みには抗っても仕方ない。それを受け容れる事が大切だと、病後の自分はいつも思うようになった。しかし実際に自然の猛威に触れると余りの力の凄さにたじろぐ。そしてそれと闘う道具を手にすると、無駄と知りながらも戦ってみようとする。人類は昔から戦の歴史だった。分かったようなことを言いながら結局はこれだ。エンジンを回しモーターを唸らせてある程度刈ったら次は防草シートで相手を覆ってみようかなどとも思う。日差しを遮り可能な限り草を生やさぬよう。

いずれにせよ負けるのは分かっている。いつも悪あがきをするのだった。そのうちにギブアップして一本取られるのだろう。そして全く敵わないと口にするのだ。

 

腰に当てて回す刈り払い機。紐でぐいと引っ張りエンジン始動。寒いとき用にチョークレバーもあり、緊急停止のキルスイッチもある。キックで始動させる懐かしい原付スクータを思い出させるので好きな道具だ。ハンディソーはリチウムイオン電池で動く。そこそこ切れる。しかしこれらでの格闘空しくまた生えてくる。仕方ない話だが。