日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

短くしてよかった

「髪は長い友」そんなコピーと共に「髪」という漢字の右上の三本が順に消えていく。そんなテレビコマーシャルがあったと記憶している。もう20年も昔の話かもしれない。「叩いて生やす」、頭皮に刺激を与え血行を改善する、大御所俳優を使ったそんなCMもあっただろう。

すべては髪の毛の話。髪の毛が薄くなってきたら、その前に手を打とう。という事だろう。事後もある。一本を三本に、貴重な一本に複数の人口頭髪を結び付けていく。錬金術ではない。無い袖は振れないのだから、何を迷う必要があるのだろう、と思う。

そんなことも自分には沢山髪の毛があったからで、減ってくる髪の毛に悩む人の気持ちは分からなかった。しかし50歳を超えてから、いつしか自分の頭頂部も寂しくなってきた。父親は白髪になるタイプではなく、密度が減るタイプだった。親子だけある、自分もそれを受け継いだ。

最近のエレベータは防犯の為に室内カメラが設置され、そのモニターがエレベータ内で映される。愕然とした。左上部からの撮影映像。頭頂部にあったはずの髪の毛が、なかった。クレーターのように丸くなっていた。しかしそれでも見ないふりをして、それなりに目立たないような髪型をしていた。

病になり脳外科手術から覚醒したら右側頭部は剃毛されていた。ツーブロックと言えば聞こえはいいが、単に右側の毛がなかった。それからは化学治療と知り、家内に頼んで愛犬用のバリカンを持ってきてもらった。病院シャワー室で3ミリアタッチをつけたバリカンで自ら頭を丸くしてしまった。どうせなくなるだろうし、無い事に気づくよりも初めからないほうが気楽だ。

決定的に変わったのは放射線治療だった。治療のために全脳に放射線を浴びせる事13回。7回あたりから抜け毛を知った。わずかに残っていた髪の毛はそれでも黒々としていた。しかし抗ガン剤でも抜けなかった残留軍は放射線の前にはイチコロだった。二晩か三晩で、あたまはつるつるになった。お坊さんかお地蔵様の様だった。随分と生臭坊主だった。

それは数か月で戻ったが、もう髪の毛を伸ばす気もしなかった。さっぱりとして、気楽だったのだ。

「3㎜で上までバリカン。あとは頂上を1から1.5㎝カット。必要あれば「すいて」下さい」。

これがその後の床屋さんへの注文内容となった。

髪の毛を短くして気づいたことがある。「気を使わなくて済む」。寝ぐせ、朝のドライヤー。一切気遣い不要だ。スポーツで汗をかいたなら、水道の水を直接浴びせればよい。頭を二、三回振れば、乾いてしまう。とにかく楽で、好きになった。両親から頂いた出来の悪い顔だ。今更なにをどうしようと美男子になる事もない。野菜は変な味付けをせずに塩でも振るだけで素材の味を楽しめばよい。自分の顔も、そうだろう。何もしないのが、一番気楽だ。

しいて悪い事と言えば、太陽光をダイレクトに感じる。雨が降ったらタイムラグなく地肌が濡れる。寒気が肌を刺す。熱くて寒い。あたりまえだ。帽子が手放せなくなった。

先日床屋で、いつもの注文をした。バリカンで一気に刈って揃えるだけだから15分だ。ふと頭に浮かんで理髪師さんに聞いてみた。

「最近自分達の世代でもバーコードのオジサンって減りましたよね」
「言われてみれば、そうですね」
「あの人たちはどうやって注文するんですか? バーコードカットしてください?ですか」
「いえ、今のまま短くしてください、とか、残っていたら反対側に持って行って、とか言われますよ」
「なんで減ったのでしょうかね?」
「最近は髪の毛が少ない人は刈ってしまう。それも一般的になったからでしょうかね」

好い事だと思う。オジサンの髪の毛など所詮なくなってしまうのだから、早めに薄毛になったなら、そのまま行くのもあるだろう。生物は自然の摂理に逆らえないのだからあるがままを受容するしかない。現実に変に執着するから、一本が三本になったり、AGAのクリニックが流行ったり。もちろん経済活動を回すためには否定もしない。お金を掛けられればそれは自由だろう。

欧州や米国。西洋人は「薄毛天国」だ。20代30代の男性でも髪の毛が減ってきたら短くカットしてしまう。また、良く言われることは、女性はわきの下の毛も気にしないという。確かにドイツやフランスでの生活で目にする光景としては、その通りだった。一方で増毛と永久脱毛でそれなりの市場を持っているのだから、全く日本は、不思議な国だと思う。

面倒臭い「呪文」から逃れることが出来て、とてもよかった。何故30歳代からそうしなかったのか、今ならそう思う。今回は「必要あればすいて下さい」と言ったにもかかわらず、「すきバサミ」の登場はなかった。それすら「必要ない」ということだろう。少しがっかりした。

簡単なカットだから、自分でも出来そうだ。しかし、節約も兼ねて床屋は減らしいずれは妻にカットしてもらおうと思っている。トラガリになろうと気にもならないし、なによりも出来上がったこの枝豆のような頭を見て、笑ってもらうネタにでもなれば、それも楽しそうだから。

床屋を終えてすっきりした頭を見て、手のひらでポンポンと叩いた。手の動きをダイレクトに感じ、頭は鼓の様に乾いた音色で鳴った。OK、感度万全。これでしばらくはのんびりとゆったりとのほほんと過ごせるな。

短くして良かった。

お地蔵様の様に毛がなくなると、気楽だ。のんびりゆったりと過ごせばよいのだから。