日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅24 へこきよめご(虹野智治)

・へこきよめご 虹野智治 ひかりの国(株)2004年

職場の蔵書。読んでいて思わず吹き出してしまった絵本。題名がなまっているように思えたので何となく東北の話ではないかと想像した。しかし子供に夢を与える本に一番向いていないのは地名などをつまびらかにすることだろうか。少なくとも大人はそれを読むと、ああ、あの辺りのお話だね、などと余分な推量がはいる。それはこの手の本には無いほうがいいだろう。その通りこの絵本の時期と舞台は「むかしむかし、あるところに・・・・」とある。まさに物語の始まりにふさわしい。

ある村の農家の若い衆に隣村からお嫁さんが来た。陽気で良く働くお嫁さんだった、ご飯もたくさん食べて元気者。しかし食後に、具合が悪いと家を出た。心配した婆様が追いかける。後生だから追わないでください、とお嫁さんは速足で歩きながら言う。ややこでも出来たのか?ともどかしいお婆さん。とうとうお嫁さんは耐えかねて、大きな屁をした。ずっと我慢していたのだ。するとそれは巨大な渦となり周り全てを吹き飛ばしてしまった。お婆さんも吹き飛ばされて木の枝に引っかかってしまう。そこに追いかけてきた婿殿が驚き、まずはお婆さんを木からおろした。

私はこんなにすごい「屁こき」だから別れてください。お里に帰りたい、そうさめざめと泣くお嫁さん。仕方ないから帰ってもらおう、そう馬を頼み隣村との峠まで来た。するとそこに大きな柿の木があり、農夫が実を取ろうとしているが背が高くて実が取れない。お嫁さんは「私に任せてくれ」と例のオナラで柿の木を吹き、あらあら柿は全て落ちる。何と素晴らしいよめごさんだ!一家は改めてお嫁さんを里に返すことなどせずに、峠を戻って家に帰る。めでたしめでたし。婿殿は最後によめごさんの放屁のために小屋を立ててあげた。思う存分へを出せるように。それが今の「部屋」という名前の由来だ、という素敵なオチが最後に書かれていた。

里に返してください、そんな表現は今の世代には通じないだろうが、昔の農村はそうだったのだろう。自分の時代でも「もう私、実家に帰るからね」というのは喧嘩した時の奥さんのワイルド・カードだった。僕は色めきだって取り繕ったはずだ。いまはそんな予告もなく、さあーっと別離するのではないか。男が追い出されることもあるだろう。

オナラ一発で恥ずかしくて実家に帰りたいというのは、ある意味当時の日本女性の恥じらいの文化だったかもしれない。しかし人間は消化器官がありそこにメタンガスが溜まる。逃げ道は一つしかないのだから、仕方がない話だ。

結婚する前に、ある種の幻想があった。彼女は結婚しても絶対にオナラをしないはずだ、と。しかし、やはり彼女も「へこきよめご」だった。柿の木をなぎ倒す力はなかったが、控えめに聞こえないようにだった。初めての放屁を感じて何かとても嬉しかった。聖人君子はいない。皆、等しき人間だと思ったのだろう。

チャイコフスキーの有名な曲に「序曲1812」というものがある。ナポレオンとの戦争でのロシアの勝利を描いていると言われる。そのCDジャケットにはなぜか「大砲」の絵が描かれていたりする。そう、曲の終わりに大砲が鳴るのだ。録音ではもちろん管弦楽と大砲とは別録音されるのだろう。フィナーレではロシアの勝利の鐘が高らかに鳴り響くが、おしまいにドカンドカンと景気よく来る。ミリオタとしてはこれは115mm滑腔砲なのか155㎜榴弾砲だろうか悩ましくなってしまう。我が家の大砲はもっと小口径だろうが、二門の砲からは日常的に交互に打ち出される。ドカンというよりはガス弾だろう。愛犬も時折発砲するから侮れない。それらを浴びても誰も死なない。むしろお互いをからかうという潤滑材となる、なんとも平和な砲弾だ。しかも家庭内にはナポレオンとロシアのようないさかいもないのだから、そのくらいは大目に見なくてはいけない。

柿の木もなぎ倒して実をわがものと出来る、そんなすてきなお嫁さんのいる何処かの農村があるのなら、是非に行ってみたいものだ。

よめご、について。方言ではなく嫁御だろう。親御さんの御と同じ、敬語なのだろう。すると自分も家庭ではそう呼ばなくてはならない。これからはヨメゴサン、ヘコキヨメゴさん・・だ。

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