日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

好奇心もほどほどに

子供の頃は沢山の好奇心がありますね。なにせ身の回りには知らない事ばかりだから。NHKで放映されていた「できるかな」。進行役のノッポさんは、そんな子供の好奇心をパントマイム的な可笑しさを交えて実現してくれていましたね。自分は子供の頃ノッポさんにとても憧れたものです。

何にでも好奇心を持つことは子供の特権。もともと人間本来が持っていた心のはずですが、社会人となり色々な失敗を経て、だんだんと無邪気な心は失われてしまいます。「なんでだろう、どうなるだろう」よりも、それをやることによる失敗を恐れて、「やらないでおこう」となる。そのうちに「なんでだろう」も感じなくなってくるのでしょう。しかし好奇心は前頭葉を刺激する事が分かっており、好奇心の有無が脳の健康寿命に大きな影響を与えるとは、脳科学的にも心理学的にも広く言われているのです。好奇心(知的好奇心)と健康寿命というキーワードでネットを検索すれば、学術的なサイトからわかりやすいサイトまで、沢山ヒットする事でしょう。

幸か不幸か、自分は昔から「好奇心」(残念ながら「知的好奇心」ではないのです)だけは強くて、しかもあまり考えずにすぐにトライする性格だったようです。中途半端ではありますが結果的に趣味が広がりました。また、それは今も止まらないのです。好奇心が脳に良い、それは自分の日常を正当化してくれるようなものです。そうであるならが健康寿命は長そうですが、すでに脳の病には罹患したし、そればかりはサイトの記事通りにはいかないようです。

好奇心はありがたいのですが、それが「暴走」すると困るものです。

職場での話です。自分の仕事は夕方から夜にかけて。地元の方々のための、公民館的な建物で事務方の仕事をしているのです。終業間際になると大きな建物の戸締りをします。その頃はほとんどの職員さんは帰宅されます。がらんとした建物です。

戸締りも一箇所づつ確認しながら歩きます。地下室に続く階段のドアの戸締りも確認します。扉を開けるとそこは密閉された階段室です。音も良く響くのです。

そこで自分の中に、とある「好奇心」がムクムクと湧いてきて、抑えることが出来なくなりました。信条どおりに「好奇心を持てばすぐに実行」です。

オーケストラホールの良しあしのパラメーターで「残響時間」という概念があります。音源の振動が終わってからその音圧が60デシベル減衰するまでの時間、とサイトにはあります。当然この場での自分の好奇心は、自らが放つアコースティックサウンドが、どのくらいの残響時間なのか、あるいは、むしろ増幅してくれて、音を膨らませてはくれまいか、です。そんな事がわずか数秒の間にアタマを駆け巡り、好奇心の赴くままに、実行したのでした。

その無人の階段室にて、思いっきりアコースティックな音を出したのです。世間では「放屁」という行為です。

ゴボウが好物な自分。昨日もゴボウの煮物をしっかり摂取していました。ゴボウの協力も得て、腸はまさに準備万端。このひと時のために地味なる蠕動運動を長く繰り返していたのでしょう。それも手伝い、信じられない程の響きを伴って、音は階段室を満たしました。大成功です。ヴィヴラートを伴った2発はまるで祝砲のように増幅されて、コンクリートの狭い空間に響き渡りました。好奇心は満たされました。実践は期待以上の効果を得たのです。

しかし同時に思い出したのです。そこから数メートルも離れていない事務所には、まだ複数の女性職員が働いていらしたのです。あまりに優秀な「残響音」は間違えなくそこに届いたことでしょう。

「あぁ、後先を省みずに、やってしまった!」

すぐに事務所に戻るわけにもいきません。すこし時間を取ってから「生真面目で深刻な」表情で戻りました。その表情はきっとロダンの「考える人」か、ゲーテの「若きヴェルテル」のような表情であったに違いないのです。ヴェルテルは悲恋に悩みましたが、自分は高らかな放屁を聞かれて悩むのです。レベルは違えど、深刻度は同じかもしれません。

職員さんたちも「大人の対応」をしてくれました。しかし、きっと勝利の音が響いた瞬間は、彼女たちは顔を見合わせたに違いありません。それを思うと、顔から火が出るわけです。

好奇心はおおいに結構。即実施もおおいに結構。しかし度が過ぎてはいけないでしょう。昔から言われてますね、「過ぎたるは及ばざるがごとし」。そして孔子の言葉を借りるまでもありません。「中庸は徳の至れるものなり」。そう、好奇心はほどほどにしたほうが良いのだろう。そして実践のボタンを押す前に、周りをぐるりと見よう。

この年齢で、そんな訓戒を得ました。まだまだ学ぶことばかりです。

密閉空間で音は増幅され、思いつきの実験は成功裡に終わりました。しかし、恥ずかしい続きがありました。