日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

善意の輪

最近ニュースやネットなどで目にする記事。コロナが収束したら最も外国人が行きたいと思う国として日本が挙がっているという。(出典:日本政策投資銀行JTBによる共同意向調査結果、「第2回 新型コロナ影響度 特別調査」)。

その理由は、「食事が美味しい事」「清潔である事」「治安が良い事」と書かれていた。

食事については、確かに日本のレストランはミシュランガイドの記載店も多い。そもそも常に自己研鑽を怠ることなく「繊細にして丁寧」なモノづくりを続ける事は、日本人の職人であれば最も得意とするところだろう。料理は当たり前にして、それはまずは食器の選択に始まり、店員の所作までに至る。だから、大雑把な食事の国から来た方が目を見張ることは容易に想像がつくのだ。B急グルメもローカルな食べ物とはいえ日本人の自分の舌でもとても美味しいと思う。

清潔であることについては、残念ながら夜の繁華街の汚なさは欧州・北米の主要な街と大差あるまい。しかし日本人がおしなべて清潔好きなことはよく言われる。手洗い、うがいの励行は少なくとも自分の世代は子供の頃から金科玉条の如く叩き込まれている。ラジオ体操と同じく、日本人は幼少のころからそう教えこまれたことにはあまり疑問を感じることなく愚直に遂行するから、清潔さは身の回り隅々まで行き渡るのかもしれない。そんな人々が生活を営む街はまあ清潔だろうし、コロナ禍がそれに輪をかけて、除染、除菌。そんな言葉が当たり前になった。

治安については鵜呑みしても良いのだろうか。最近はオレオレ詐欺や複雑巧妙化したネット詐欺に加えて、想像もつかない自分勝手さや情痴怨恨による理不尽な無差別犯罪が起こる。が銃器が認められていないおかげで乱射事件も基本的には起こらない。未だ総じて安全な国と言えるかもしれない。日本人として概ねこれは誇れるのではないか。

治安か・・。昔話を思い出した。自分がまだ会社員、それも二十歳歳代の話なので三十年以上前の話になる。当時自分はある商品を米国のお客さまに相手先ブランドで販売するという仕事をしていた。一機種を納入できれば次機種採用の話もある。それで米国へは次世代商品の打ち合わせで頻繁に出張したし、彼らもまたしきりに日本にやってきた。

そんなある日、来日した米国人が興奮してこう話したのだった。

「昨夜成田に到着して換金したときに財布をカウンターに忘れてしまった。東京のホテルでそれに気づいた。しかし翌日の朝に、何故かホテルにその財布が届けられていた。びた一文、減っていなかった。こんな経験初めてだ。これまでに、こんなミステリアスな事はなかった。ミステリーを越えて、怖い。」

そう彼は語っていた。

怖いと言う彼は、もしかしたら日本がとてつもない監視国家で、一挙手一投足が何気にチェックされている、と思ったのかもしれない。

しかし日本人にしては当たり前の話なのだ。財布を拾ったほうはそれを警察に届け、警察は警察で財布の中の情報と入国記録を照合し、自分たちが自律的に持っている「繊細にして丁寧」な仕事をしただけに過ぎないのだろう。誇るべきは、誰も忘れものの財布を盗る事もなく、確実に警察に渡したということだろう。

七、八年前には自分も似た経験をした。三浦半島をサイクルツーリングして、旅を終えてとある私鉄の駅で自転車を分解、輪行袋に入れたのだ。その際に分解に用いた六角レンチのセットを改札前に置き忘れてしまった、そのことに下車駅で気づいたのだ。早速駅員さんに話をすると、社内電話で乗車駅に連絡が付き、六角レンチは直ぐに見つかった。そして待つこと1時間、六角レンチは封筒に入り、無事「社内便」に載せられて地元の駅まで戻ってきた。後続の列車に無賃で載せられて車掌から駅員へと手渡されたのだろう。

これも街の人々の正直さ、そして鉄道会社職員の「繊細にして丁寧」な仕事、その2つが輪になって、小さなレンチの帰還に結び付いたのだと思えるのだった。言ってみれば「善意の輪」だろう。それによって助けられた手のひらに乗るその小さなレンチはその後ちょっとした宝物になり、以来輪行バッグの中で重たく存在感を放っている。

しかし一年前に真逆の経験もあった。タクシーで料金を支払ってから、数分後に財布がない事に気づいた。すぐにタクシー会社には連絡が取れ、自分の降車後には誰もその車には乗っていない事、そして車内に落し物の財布はないという確認が取れたのだ。下車してから紛失に気づいた箇所までを何度も目を皿にして歩いても、それは見つからなかった。考えたくはないが、財布はレンチとは違う。やはり人々の正直さや誠意が通じないのかもしれない、とがっかりしたのだった。三十年前とは、七、八年前とは、変わってしまったのだろうか。

そしてつい数か月前、隣県の高原迄出かけた。そこで愛犬の散歩をしたのちに最寄の鉄道の駅に立ち寄った。そのまま車で帰宅して、夕刻に犬の散歩をしようとして気づいたのだった。「犬の散歩カバン」が無かったのだ。散歩カバンと言ってもそれは、100円ショップで買った小さなエコバッグの様なもので、中には、犬のリードと、水を入れたペットボトル、犬が水を飲むためのボウル、そしてトイレットペーパーしか入っていない。総額でもその価値1000円もしないカバンだった。「あぁ忘れものだ、まぁ仕方ない」、と思っていたら、家内が当時の足取りを思い出し、あの高原の駅のトイレに忘れたのではないか、と言い出した。そして駅に電話すると、果たして、あった。あとは「善意の輪」に乗っかるだけだった。

なるほど、善意の輪は今も必ず存在しているな。あの財布も拾われて盗られてしまった訳ではなく、誰の人の目にもつかないところに落ちてしまい、今でもそこに人知れずにあるのではないか、そう今は思うようにしている。価値観が多様化した今でも、そんな善意は日本人の中に残っていると思いたい。諦めかけた自分と違い、それを信じて高原の駅に電話で問い合わせた家内には、まだあの時代の日本人の心があったのだ。

コロナが収束して外国人が再び日本の地を踏むようになっても、僕は自信をもって「治安の良さ」をアピールすることだろう。治安が良いというよりは、誠実さと繊細さ、丁寧さを基盤とする「善意の輪」が機能している国ですよ。誰も無理をしていないのです。そう言いたい。それは清潔さと共に、日本人が小さいころから道徳として教え込まれている事だろう。外国人がいつまでもそう思ってくれるような国であるならば、彼らの日本旅行が楽しいものであることは担保される。素敵な話だと思うのだ。

この国はまだまだ捨てたものではない。外国人にもぜひ感じ取ってほしい。今度ばかりは宅急便で届いた「犬の散歩カバン」を手にして、散歩に出た自分も今度なにかに遭遇すれば、必ずや「善意の輪」に加わるだろう、そう思うのだった。

 

今度は宅急便で戻てきました。宅急便の費用のほうが高かったのかもしれませんが、善意の輪ですから、嬉しい話です。