日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

七人の敵

古くから言われている言葉はなかなか言い得ているものがある。しかし今となっては首をかしげるものもあるだろう。「男は敷居を跨げば七人の敵あり」という言葉など、どうだろう。七人には具体的なものもなく「多い」と言う事を意味するようだ。

敵という以上それは我が身を脅かす存在である誰かだろう。果たして自分には敷居の外に七人の敵がいるだろうか。強いて挙げるとしたら昔の会社生活になるだろう。権謀術数をめぐらし手練手管を繰り出すような社会人生活をしていたわけではない。顧客とは良好に、対立することなく最適解を求めてきた。一方で社内は厄介で、上司に諭されるのは良きにしても部下や関連部門との関係には何らかの軋轢もあった。自分は人とのいさかいを何より避けさしさわりのない解決策ばかりを選んできた。負けず嫌いと言う単語は自分には一切縁が無い。人生に勝ち負けを持ち込む意味も解らない。そんな自分ですら人間関係からメンタルの病にもかかった。営利企業の中で人と人が触れ合うのだから仕方もない。この頃は確かに七人を超える敵がいた。が、ジェンダーレスと雇用の流動化が進む今日、この言葉は今も生きているのだろうか。

辛い環境とは自ら縁を切った。今のパートタイムでの勤務先は社会福祉団体で、それは競争原理の下にない。ありがたい話だった。職場の同僚は地元の方に如何に奉仕するかを考えつつ、自分の仕事に於いて丁寧さと効率化の両方を考えているように見受けた。

敵もなく何事もない安穏な生活になるはずだった。七人どころか敵は無し、そうなるはずだった。しかしそうもいかないかった。自身の病。老いへの向き合い。さまざな出来事が立ちどころに起きてきた。

あるかないかも、あっても何時かも分からない病の再発への不安。小さな出来事をきっかけに急速に老境に身を置いく親。親の施設や勤務先で見る老いの実体。愛犬も又老いて要介護になってきた。かく言う自分も又その道を毎日進んでいく。すべては知識として持っていただけでその時が来るまで現実味が無かった。そしてそれらに対する向き合い方についての妻との僅かな考え方の違いによるいさかいも、それなりに消耗するものだった。自分は周囲の老いに真剣に向き合っていないと。それを妻は「歯車がかみ合っていない」と表現した。すると自分はまるで免罪符のように自らの病の話をしては彼女に嫌な顔をさせてしまう。

なるほど敵は、敷居の外ばかりではないな、と考える。敷居とは住居の事ではなく、内側にせよ外側にせよ自分自身の心というべきなのだろう。動物である以上「病」も「老い」も自然の摂理であり不可避だ。ならば軟着陸を目指すしかない。会社員時代に飽きるほど飛行機に乗り様々なパイロット氏の腕前に接してきた。音も振動もなく静かに地面と一体化する着地もあれば、ドスンという衝撃を伴う着地もあった。幸いに急降下し台地に激突という状況には遭遇しなかった。そうは言っても軟着陸でもやはり静かな着地が望ましい。

そんな不安とうまく接して軟着陸したいものだ。共に経験していくであろう妻との歯車もうまく嚙み合ってほしい。嚙み合わないは弱く・頑迷な自分が何処かに居るからだ。

病への怖れ、老いへの備え、妻を嫌がらせてしまう弱い自分・・。考えもしなかったことに遭遇してくる。七人の敵は敷居の外には確かにもういない。が、心の内外には沢山いる。

…「弱き我が身 心の中に 敵ばかり」。さしずめそんな風に詠みたくなる。

 

敷居の外にはもはや七人の敵はいないのかもしれない。厄介なことに己の心には沢山の敵がいる。弁慶の七つ道具あたり、役に立つものか。

 

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