日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

耐えずに、免れる

病院のある街の通りを歩いていた。通院治療も終えた自分は毎月の血液検査のフォローアップがあり、二年近く毎月通ううちにそのクリニックのある街のつくりはすぐに把握した。商店街の外れに安い駐車場も見つけた。そこはつい半年前までは駐車場だった。格安さ故いつも停めていた。しかしある日にそこは閉鎖され、すぐに鉄板に囲まれた。

そこそこ広い遊休地を都会は放っておかない。あれよと言う間に立派な基礎が入った。低層住宅地なので高層建築は無いだろうがある程度の集合住宅が想像された。最近はSDGSもあり鉄筋コンクリートではなくも木製のビルが増えるという。

工事計画を示す掲示板を見た。鉄筋か木製かは分からないが大手デベロッパーの看板。その下に四文字で書かれていたのだ。「免振構造」と。

免震か。知ってはいたが、今は地震は耐えるものではなく揺れから免れるということだ。自分も都心の高いビルで地震にあったことがあった。ゆったりと揺れた。建物がしなって力を逃しているようだった。

例えば、病になる。ガンになる。するとそれをつぶすべく悪い部位は外科的に除去し、あとはその末裔を抗がん剤放射線で攻撃する。悪い細胞は死滅する。さてその後に何がある?ガンは自らの細胞だ。単に分裂異常を起こしただけだ。そう思うならば攻撃が正しいのか、分からない。治療と言う名のそんな攻撃を散々受け今の日々がある我が身としては、今更それが正しいのかと?と疑問の余地もない。

商店街を通りを抜けると目の前は超高層住宅街だった。億ションとも言われる辺り一帯は、数年前の台風による近隣の川の氾濫で意外な弱点も露見した。超高速住宅の是非を言うわけでもない。むしろ天空の摩天楼は如何にも豪華で上層階の生活は素晴らしいだろうことが想像できた。たとえ関東大震災級の地震があっても上手く揺れを逃し、免れてくれそうに思える。

今や災難から真正面にぶつかる時代ではないのかもしれない。災難は必ず起きる。不可避でもある。ならばそれは耐えるのではなく免れるのが一番。それが「免振」といういかにも作ったような漢字二文字に現れているように思う。

リスクマネジメントの本質は、リスクに対抗するのではなく危険は必ず起きる前提でそこを如何に被害を減らし正常の姿へ早く戻すべきか、そこから危険が次に発生しない仕組みを構築するか考える。そんなことを何処かで読んだことがある。この言葉の裏には、リスクはまず事実ならば現状を受け入れる、という姿勢がある。そこが耐震と免振の違いだろう。

「柳に風」いう言葉がある。同じ意味を持つ日本語が多い事に気づいた。受け流す。合気道は相手の力を生かして倒す。相撲も然りではないか。突進する相手をかわして「うっちゃり」だ。柔よく剛を制すとは柔道の極意だろう。結局のらりくらりとかわすのが強い。

病院の帰り道に思うのだった。今月の血液検査も腫瘍マーカーにも異常がなかった。この値が仮に幾十上昇したとしたところで、何を慌てふためく必要があるのだろう。すぐにネガティブになる自分は、もしかしてなにかと正対しようとしてまいか。

免震構造の超高層住宅が群をなす街にて、自分は陽光に輝く高いビルを見る。強い風からも揺れからも、逃れることの大切さを改めて思う。それは同時にすべてを受容することを意味する。受け入れて、横へかわすのだ。簡単でいて、難しいのかもしれない。

天空を目指すかのような摩天楼住宅。揺れも風も正対せずに受け流す。それが極意だとようやくわかったように思える。ただ、それを実践するのは難しいかもしれないが。