日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

都会にある里山にて

自分が住む街は東京23区を除くと市としての人口は日本で第一位という。2022年時点で人口370万人に近い大都市だ。

実際高台にある我が家のベランダから外を見る。丹沢・箱根・富士・奥多摩秩父の山々は望めるものの、手元はあきれるほどの住宅と集合住宅で、遠望と空を除く空間は埋め尽くされている。街を歩くと人と車ばかりなのだ。酸欠を起こしそう。しかし少し足を外してみると意外にも里山がある。いや、山というほどのものではない。が、もともと自分の住む地域は河川と丘陵のおりなす場所でありそこを開発したのだから、里山がある、というよりも、開発を逃れた場所がある、というべきだろう。

谷戸・谷地地形が多い。その一つに気まぐれに進入し足を進めてみる。が、住宅は谷の奥まで侵食し、昔なら蛍もいたであろうせせらぎも、今やコンクリートの掘割で護岸されたり暗渠となったり。山歩きが好きな人は源流に興味を持つ。登山でピークに至るまでは何度も沢に沿って登るしそれをへつる。源頭部を越えて稜線に立つことも多い。水分補給さえできる沢は登山者にとっては親しめる場所だ。そんな源流を規模の小さな里山を見上げる谷地・谷戸で探し当てるのは容易なはずだが開発の下で見つけるのも難しい。

県が定めた「地域計画対象民有林」や市が定めている「森林整備計画」のお陰だろう、まれに開発の進んでいない、あるいは保護された谷戸、谷地を見つけるのは嬉しい話だ。見上げる斜面には小さな森も残る。天然林であってほしい、という贅沢は言えない。人工林であっても、木々が生きて残っていることは嬉しい。

ある谷戸では、歩き進んでいると市民の森となり、沢の源流となりそれを上り詰めると尾根、というよりは台地の末端に至る。木枠で作られた見晴らし台があり、木々の合間からは丹沢を眺めることも出来る。小さいながらも「起承転結」のある散歩ができる。野鳥も多く、昔ながらの生態系も残っている事だろう。

自分が社会人になってから数年後、世はバブルブームでもあり全てが右肩上がり。勤務していた会社の販売予算も、街の人口も、住宅開発も。しかし長いスパンで経済も価値観も変わり自然や景観を保護しようという動きが見えてきたと思う。そんなお陰で人が多くストレスもたまり、ため息が出るような都会の中にでも、こうして一息つけるエリアが残っていることはありがたい。

久しぶりに懐かしい谷地を詰めてみた。娘たちが幼い頃に「少しハイキング気分でも味わってもらおう」と出かけた森の見晴らし台は疲れてはいたが健在だった。小さくともそこには自然があり、心なしか空気も美味しいし、気分はリフレッシュされる。娘たちと歩いた季節は今よりももう少し遅かったのか、春の霞に山の展望はぼやけて、その曖昧な輪郭の中に芽吹く木々と綺麗な桜が浮かんでいたのだった。ヤッホーとでも言いたくなるような、のどかな日だった。

彼らは社会人となり結婚し、この街を離れた。都会にある里山の眺めは昔と変わらない。これからも様々なことが待ち受けているであろう彼ら、何かに疲れたり行き当たったら何処か里山に行ってほしいな。気分が変わり、前向きになるだろう。

・・さて、頭も禿げて何かするにも掛け声が必要になってきた自分も、森の空気に接して、力が出てきたようだな。展望台をおりて、街に戻ろうか。

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春の里山の空気は柔らかく遠くの山々は霞む。すべてが昼寝中のようだった。 (絵は20年ほど前にPCとペンタブレットで描いたもの)