「知の泉」たる図書館あるいは埃を被った我が書棚。ゆっくりと利用し再び手に取ってみよう。捜している何かが、素敵な言葉が表現が、見つかるかもしれない。さて今日は…
中学生の頃に読んだ「井上靖」の自伝的諸小説といわれる「しろばんば」を再び読んでみようと思ったのは入院生活の手慰みだった。
初めて読んだのは小学生だった。この本は分厚く読むのに時間がかかったと記憶している。狩野川、安倍川、大井川。地理がすでに大好きだった自分には主人公とばあやの汽車旅の描写とそこで出てくる川の名前と見知らぬ風景に興味があった程度だった。むしろ高校生の頃に手にした続編ともいえる青年期の自伝ともいえる「あすなろ物語」が印象に残っていた程度だった。
病床でネットで取り寄せた古びた新潮文庫は昭和53年の第26刷。約45年ぶりの再会だった。あの頃は上下巻2冊だったと思うが、手にした本は前後編の2部作を一冊にまとめたものだった。
前編部ではまだ幼童といえる主人公・洪作が少年へ目覚め、古い習俗に支配された人々の住む村で血縁もないお婆さんに育てられる中で得ていく人間性。思慕を覚えるほど大切な叔母の夭逝で自分を見つめ直し、激しくこみあげるものを抑えきれず天城の峠を目指したところで終わっている。
後編では少年だった洪作はやがて、物事の見え方や周りの人の見え方が変わってくることに気づく。女の子は異性になり、物には哀れという事がある。感受性は更に豊かになっていく。徐々に、そしてやがて急速に変わっていく自分。これまでの2倍も3倍も勉強しないと通れないぞと言われた中学校へ是非入学するぞという熱い志と学習。おませな従妹を通じて知った石川啄木の詩の甘美な世界。自分に打ち勝つ「克己」という言葉。そして長く自分を育ててくれた恩人・血の通わぬ老婆(曾祖父の妾)の逝去。長く離れていた親の転勤そして受験準備のために去る故郷。
自らの明日に向けお世話になった村と村人への別れを告げる出発の日。そこで初めて「わびしい」という言葉が語られる。洪作少年は「わびしいもの」をわびしいと受け取るだけの年齢になっていたのだった、と結ばれる。
全編を通じ通奏低音のように根底をなしているのは、中伊豆のすばらしい風景と、そこで心身を育まれていく一人の少年を優しく見つめる視線だと思う。人は出会いと別れを通じて成長していく、そんな当たり前のこと。何とか前向きな明かりを持ちたいと思っていた病床の自分の感性に、本の文字は風景になり感情の波に変化しすうっと溶け込むように入ってきた。ベッドの上で、ひとり泣いた。
未知の川の名前を覚えたのが唯一の成果だったとしたら何と感受性の低い小学生だった事か。今ここに居るのは薄くなった頭に膨れた腹をもてあそんでいるだけの醜い初老の男だ。そんな男の心にも、かくも鮮やかで泣ける読後感を味あわせてくれたもの。それは素晴らしい原作に加え、やはり病と年齢だろうか。