日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

しがない仕事でも楽しいものです

35年続けた仕事は会社の提示した条件に納得し希望退職に応じて辞めた。「これは人のお役に立つ」と期待と興味を持って再就職した先は病気罹患により自己都合扱いで不本意ながら辞めた。その後は片手間で誰でもできる仕事をスローにやっている。しかしそのパートタイムジョブもまた地元の人にわずかでもお役に立つ仕事。「ありがとう」と言われる仕事。一方35年間務めた最初の仕事は、果たして人類の、いや、誰かに喜ばれる仕事だったのかと言われると、答えようもない。そんなことを考えたこともなかったのだから。しかし辞めてしまった再就職先と、今のパートタイムの仕事については、こう言える。「困っている方のお役に立つ仕事だ」、と。

今は、誰にでも代わりが出来る仕事。自分である必要性もない仕事。しかし、自分のやっている仕事の先には地元の方の「ありがとう」という言葉がある。それが嬉しい。35年間続けた仕事よりも、はるかに素晴らしいと思う。

どんなにルーチンワーク的な仕事でも、その活動に没入した時点で人は仕事の歓びを知る。そしてその仕事が、仕方なく耐え忍ぶものではなくなった時に、それを通じて人は喜びを感じる。するとそれが「生き甲斐」になる。そんな話を本で読んだ。(*)そんなものかな?と思ったが、今日、コロナ罹患による10日間の活動制限の明けで仕事に復帰した際に思ったのだ。

同僚からは「コロナから、お帰りなさい!」と言われた。そして仕事だ。相変わらず代り映えもない、誰にでもできる、すぐに代替の効く仕事。簡単な、つまらない仕事。ではあるが、自分のやり残していた小さな宿題に取り掛かり、それをほぼ終えて思うのだ。「かなり仕上げることが出来たな。次回の勤務で、これを仕上げて成果物についての皆さんの判断を仰ごう。それがどちらに転ぼうとも、とりあえず自分はやり終えたし、NGならばまたやり直せばよい。それよりも、小さな成果が生まれ、皆さんがそれについて何かを感じて意見をくれるだろう。こんなに嬉しいことはないな」。

35年の間、仕事が生きがいでそれを失ったら「何をしたらいいのだろう?」と悩む人が、自分にはわからなかった。自分は35年間の時間の中で仕事と同じだけ、いやそれ以上、自分自身の世界と会社以外の人間関係を作り上げることに熱中してきたからだ。仕事を辞めてパートタイムになり自由時間が増えた。今や自分の時間をどう使おうと誰も文句を言わない。そんな状態になって初めて、仕事が自分に与えてきた価値に気づくのだった。

今一度、そこまで仕事に没入するかと聞かれればそうではない。この年齢で、限られた残った時間は、自分の思うように使いたい。しかし何かに熱中し、その成果を感じる。誰かが喜ぶ姿を見る。それが金銭報酬を伴う仕事であるならば、素晴らしい話であることは疑う余地もない。額の多寡は問題ではない。

今日の職場での「おかえりなさい」は心に染みた。自分のやってきた些細なことも、少しは役に立っていたのだろうか。お世辞かも社交辞令かもしれない。しかしどうやらそこにいつしか、わずかばかりの「生き甲斐」を感じていた、と言う事に気づいたのだ。

さて、これからだ。今の仕事を続けるもあり。もっと自分が課題に感じていることにわずかでも取り組めることをするもよし。すべては自分の手の中にある。この年齢で、ようやく自由な選択肢を手にしている。

「しがない仕事でも、楽しいものだ。」「限られた時間を後悔なきよう過ごすだけだ」。すると次の行動の解は、いずれ見えてくるのだろう。

(*)茂木健一郎「いきがい」新潮文庫

本を読み、見の周りを見回し、思ったことを手帳に記する。そんな中で次の行動の端緒が見えてくれば、と思うのです。何かが思い浮かんだらすぐにキーワードを手帳に。両者はセットのようです。