日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

オレンジのカード・認知症サポーター

職場にお婆さんがやってきた。いや、見ず知らずの人に連れられて来たのだった。晩秋の夕暮れは真っ暗で、外は既に寒かった。どうも自分の家が分からないようだ。職員が正面から対応をする。

「お婆さんのおうちは何処ですか?」
「何処へ行こうとしていたのですか?」

お婆さんの持ち物はスーパーで買ったパック入りの「助六寿司」。それをしっかりと有料のレジ袋に入れて、握りしめているのだった。そしてただただ途方に暮れていた。

応答は要領を得ない。仕方なく職員は、「お財布見せてくださいね」と話しかける。職員数人で、内容を確認する。会計の都度都度、高額紙幣で支払いをしていたのだろうか、千円札がやたらと多く、更に小銭でお財布はパンパンだった。そんな中、自分にできることは、まずは暖かいお茶を入れて、お婆さんに飲んでいただくだけだった。

幸いに住所氏名連絡先の書かれた紙片が財布の中に在ったようだ。地図で調べると、それはスーパーとは反対側の地名だった。思うに、スーパー迄夕食を買いに出て、右手に坂道を上るところを左手に登ったのだろう。そうでなければ、この建物には辿りつけないのだった。

職員がメモ片の連絡先に電話するとそれはお婆さんの息子さんの職場だった。息子さんの職場は県内でも市が異なり、すぐには来れないという。それでは職員が家までお送ります、そんな話をして、お婆さんは助六寿司の入った袋をしっかり握りしめ、数キロ離れた自宅へ無事に送られたのだった。

自分が高齢者の認知症の方に会ったのは、これが初めてだった。

* *

有吉佐和子が小説「恍惚の人」でボケてしまった老人、今でいう認知症の方を描いたのは1970年代の前半で、それは50年も昔の話だった。今でいう認知症は当時も存在しそれに苦しみ、また老いを見つめる家族。今も変わらぬテーマ。それがこの作品のヒットの背景にあったのではないか。認知症と言う病名は今では一般に定着した。お陰で治療法や社会の認識そして支援の枠組み作りなどは当時からは大きく進化したに違いない。「ボケた老人」は「認知症の老人」になったのだろう。

老化に伴う認知力低下とそれに対する正しい認識、仕組みづくりはもう半世紀前からのテーマだったとわかる。自分の親もそんな年齢に達した。母親から頼まれた事を解決してその内容を伝えた翌日には、また同じ頼まれごとをされるのだった。いずれは認知力低下があるだろうとは思ってはいたが、もう始まっているのだろうか。一方でかく言う自分は病の治療で、ある程度のリスクを承知のうえで脳に放射線治療を受けている。


自分のいずれの日は、遠くないかもしれない、そんな思いもある。日々に物忘れがひどくなる自分を見つめ直すと、とても他人事とも思えない。

認知症とは何だろう、単なる「物忘れ」と「初期認知」のボーダーをどう感じ取るのか?そしてまた自分自身の異変に如何に「気づく」のか。そんな問題意識がいつか大きくなっていた。

高齢者人口はこれから増えていく。それに伴い(その多くは)老化現象である認知症の方も増えていく。2012年時点では65歳以上の15%つまり7人に1人程度が認知症、それが2025年には5人に1人になる見込み。そんな時代だそうだ。(平成28年高齢社会白書(概要版)・内閣府発行)5人に1人とは高い確率だろう。決して他人事ではない。罹患した本人は大変だがその家族は何をすればよいのか。

折よく職場で認知症サポーター養成講習があったので受講してみた。

認知症サポーター、聞き慣れない名前だが厚労省のサイトにこう書かれている。「認知症に対する正しい知識と理解を持ち、地域で認知症の人やその家族に対してできる範囲で手助けする「認知症サポーター」を全国で養成し、認知症高齢者等にやさしい地域づくりに取り組んでいます。」

講習はテキストにビデオ。座学に加え受講者・講師を交えたフリートーク

最初は物忘れがひどくなってきたと思っていた自分の母。しかし何度も同じことを聞き、ある日外出したら帰ってこない。お財布がないというのでそれをタンスの中に見つけると、貴方が取って隠したのね。と、言ってくる。ただの物忘れではないのか。

しっかりしてよ、何やってんだよ、と対応しても、母親はおどおどするばかり。医者にかかり検査の結果、アルツハイマー型の認知症という診断。自分たちの対応が悪かったのか?強く言い過ぎたのか?どうすればよかったのか?後悔と共にこれからの不安。

そんなビデオに続き、テキストを用いた認知症についての説明。認知症の型。アルツハイマー型、血管性、レビー小体型、前頭側頭型、他。認知症が疑われる兆候、認知症の人の気持ち、家族の気持ち、接し方、認知症の人を支える医療や行政の仕組み、と一通りの説目があった。

最も勉強になったのは、認知症でも全ての感情や記憶が失われるわけではない。認知力は衰えても喜怒哀楽の感情だけは残っている。と言う事。強く怒られればやはりそれは恐怖心となって心に残る事。認知症になった方が自分で書いた手紙がテキストに記載されていた。

「しっぱいばかりでむすめにめいわくをかける。なんのいんがでこうなったか。じぶんのしていることがわからなくなるう」

全くの感情の消失でもなく、こんな自己認識は残るようだった。そんなこともあり、認知症の人に話しかける時は、話すときは正面から笑顔で向かい合い、相手を遮らなく聞くこと。人間としての感情・尊厳を傷つけないように、とのことだった。

また、家族も認知症の身内に対して、「戸惑い・否定」「混乱・怒り・拒絶」「割り切り」「受容」と四段階のステップで気持ちが変化していく事。しかし家族も疲弊しては本末転倒、そうならぬように医療や行政の仕組みを利用する事。そんな説明があった。


受講の証として厚労省発行によるオレンジ色の「認知症サポーター」カードとオレンジのゴムの腕輪が手渡された。このカードやオレンジの腕輪は認知症を見守りますという証。これらを携帯すること、家族や親せき、ご近所、友人の関係など近しい人の認知低下が気になったら相談機関に相談するよう伝える事。一歩進み、路肩で季節違いの服を着た方、道迷いの方、お金の支払いが出来ずに困っている方、などを見つけたらまずは、正面から向かい話しかけ、困りごとは何か、積極的な手助けをすること、また認知症の方の介護をされているご家族へのねぎらい。そんなことをしていって欲しいという内容だった。

帰宅後に家内と共にテキストを読んで、改めて、「よろしく頼むよ、お互いにね」、と話し合う。こんなわずかな研修で自分が認知症の方や家族のサポーターになれるとも思わない。しかし支援するという社会の枠組みは知ることができた、そこで何らかのお役に立ちあるいはお世話になることもあるかもしれない。

職場にやってくる様々な方々を見て思う。性も年齢も異なる。エネルギーを放射している人もいれば萎えてしまった人もいる。健康年齢はつくづく大切に過ごしたい。気の持ち方や接し方で、認知の方も変わるのかもしれない。一方で自分や周囲で発病しても、本人としても家族としても、それを受容し、社会の枠組みの協力を得てその上での生活のサイクルを作っていく事が大切なのだろう。縁がないかもしれない、遠い先かもしれない、近い先かもしれない。毎年、年齢を重ねていく。伴い老化現象は必ずやってくる。そして認知症はその一症例だ。配布された「認知症サポーター」カードと腕ゴムは、なんだか、重たい。

受講の証、オレンジのカードと腕ゴム。自分に何ができるのだろうか。