日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

耳年増

他人の話を聞く事で知識だけが先行する頭でっかちの人。そんな人を耳年増と呼ぶのだろうと思っていた。しかしそれは勘違いだった。広辞苑はこう書いているいる。「(若い女性が)他人の話を聞く事で、経験はないが充分な知識を得ている事。多く、性的な知識についていう」と。なるほど女性の話で、性的な話題についての使い方らしい。

自分は男性で、話題は性的なものでもない。となると耳年増という単語は自分には当てはまらない。しかし聞くともなく耳に届いてくる話には反応するし記憶に残ってしまう。オヤジの耳年増だ。それは職場での話題だ。

- △〇さんのご家族は誰が面倒を見るかでもめているのよ。長男は妹にやってもらいたい。妹は家庭が複雑。誰でもいいから早く介護認定の申請をすればいいのに、ここまで関係こじらせて・・。
- 〇Xさんは認知が進みご家族は施設に入れる事にしたそうです。うちのデイサービスは今月で終わりですよ。
- ◇〇さんはデイの拒否が激しくて、ご家族も手を焼いているんですね。
- 〇〇さんが先日亡くなったらしいですよ。うちのデイをやめて数か月だったね。
- 今度、自宅で家族を看取るための看護者の集いがあるよ。
- エンディング・ノートの書き方講習会の資料が出来たから見ておいてね

そんな話題が高齢者福祉施設を兼ねている自分の職場では日常的に飛び交っている。社会福祉士でも介護福祉士でもないただの事務パート職員の自分はそんな会話の中で仕事をしている。飛び交う話はもちろん性ではなく生の話題だ。人生終末期における本人と家族の軋轢、色々な人生の幕引きのかたち。中途半端な知識だけは膨らんだ。それらはいつか確実に必要な情報だが、今の自分には不要だと思いたい。聞いているだけで気が滅入る。すべてを我が身と家族にあてはめてしまう自分がいる。そんな話題を無意識に考えてしまうのはもしかしたら職業病かもしれなかった。頭の中に形作られてしまったのだった。

バカヤローもうやめてくれ。そう思う事が増えてきた。

自分が今四十代や五十代なら何とも思わないだろう。しかし六十も過ぎると色々見える風景が異なってくる。思わぬように動かぬ体。親の介護。行く末をどうするのか。耳から得た知識だけが増え自分とその周りをそこにあてはめてしまう不幸。リタイア後の生活は楽しいと言うが本当だろうか。

オヤジにせよオバサマにせよ耳年増は止めたほうが良い。都合の悪い情報はやり過ごすのが良い。いつか本当に悩む時に初めて考えよう。週三度の仕事でも要らぬ情報が入ってくるならば、そろそろ辞め時かもしれない。

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