とある高原の駅。
そこは数年前に改築されて真新しい二階建の駅舎となった。昔のほうが趣があったという声が多い。僕もその一人だった。澄んだ空気の下、駅舎の向こうに3000mに近い雄峰群を眺めるその駅には、一時間に一本程度の気動車も発着する。のんびりとしたアイドリング音が漂うそこは、いかにも平屋の素朴な駅舎がお似合いだった。
改築された駅舎は周りの風景から浮いているようにも思えるし、なによりも列車に乗るにも2階の改札まで行かなければならない。しかし一つ。良いことがあった。
吹き抜け感のある天井の高いその真新しい駅舎の2階には、なんとピアノが置いてあるのだった。普通のアップライトだが、駅を訪れた人誰もがそれを弾くことが出来るようだった。
列車を待つ間、駅で時間をつぶしていると、聞き馴れた、とても素晴らしいメロディが流れてきたのだった。
弾いているのは芸術家風でもない、自分に近い年齢の普通の男性だった。暗譜だ。確かめるように一音一音を大切に出そうと丁寧に鍵盤に指を置く彼のリズムは、確認もあってか時折崩れる。が、もともとの精密で堅牢な作品はそんなことではビクともしないのだった。
あや織りのような重層的で優しい旋律が冬の高原の空気を柔らかく揺るがせる。前奏曲とフーガが一対になった大好きなその曲、僕はそれをまさに今紡ぎだしている名ピアニストに釘付けだ。
彼は前奏曲を弾き終えてピアノを立った。僕は思わず拍手をして、フーガもやってください!とお願いする。
「いやぁ、この駅ならだれも居ないから弾けるんです。とても人様にお聞かせする音楽ではないんです・・・」そう言って彼は恥ずかしそうにそそくさとピアノを離れたのだった。
彼が弾いた音楽は、間違えなく背景の白銀の峰々まで行き伝わったに違いない。ここ数日は朝晩に氷も張るという冷涼な気候の中、彼の柔らかな響きのお陰で駅舎には暖かさがあったのだ。
新しい駅舎も、悪くないな・・・。あっという間の心変わりに少したじろぐ。
頭の中には、もう演奏が終わってしまった素晴らしい前奏曲と、それに続くフーガが、残響も豊かに鳴り響いているのだった。
https://www.youtube.com/watch?v=hPk0GGL0i0w
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